【光る君へ】輝いていた場面「ベスト5」 秋山竜次は迫真演技…平安朝を描いた異色作
秋山竜次と渡辺大知の迫真の演技
第4位は第5位と重なるが、日記を残した実資と行成が、日記に記されたように活き活きと描写されていたことを挙げたい。たとえば、刀伊の入寇を撃退したことへの恩賞をめぐって話し合われた陣定(公卿たちが内裏で行う国政会議)の模様である。 『小右記』によれば、それが開催されたのは寛仁3年(1019)6月29日のこと。藤原公任(町田啓太)と行成は「天皇からの命令が出る前に戦闘が行われたので私的な戦闘ということになり、恩賞を出す必要はない」と意見した。これに対して実資は、こうした緊急事態の場合は、たとえ天皇の命令がなくても、例外として恩賞を与えないと、現場がやる気を失って、ひいては国を守れないと強く訴えたという。実資を演じる秋山竜次の迫真の演技で、陣定の模様が生々しく浮き上がった。 行成も負けてはいなかった。たとえば、一条天皇(塩野瑛久)が譲位を決意したときのことである。 一条天皇の病気について、道長が占いを依頼したら大凶が出て、それについて語っている様子を、今度は一条天皇自身が聞いてしまって、体調がさらに悪化し――という展開も、行成が『権記』に書いたとおりであった。 そして行成自身だが、最後まで定子(高畑充希)が産んだ敦康親王(片岡千之助)を東宮にしたいとこだわる一条天皇に、「敦康親王様を東宮とすることを、左大臣様(道長)は承知なさるまいと思われます」と必死に反論。道長の長女の彰子(見上愛)が産んだ敦成親王を東宮にする承諾を得たのだ。『権記』の記述のままに、一条天皇と道長それぞれの意を受け、煩悶しながらも、道長の権勢を築くことに協力する行成像がよく描かれていた。 行成の道長への忠誠心と、権力に媚びない実資の正論。この二つの軸に支えられたことで、『光る君へ』は歴史ドラマとしての迫真性を失わなかったと思う。
天皇をとおして当時の政治が見えた
第3位には、一条天皇と三条天皇(木村達成)の存在感を挙げる。寛和2年(986)から寛弘8年(1011)まで25年にわたって在位した一条天皇の治世は、王朝文化がもっとも華やかだった時代で、藤原氏の全盛期であるため、天皇の存在感が薄らいだ時代のようにも受け取られているが、じつは、後世の公家たちが理想とした治世だった。 一条天皇自身、目標は天皇親政にあり、道長と良好な関係を築きながら政治的な手腕を発揮したと評されている。知力にもすぐれ、実資や行成も、大江匡房が著した『続本朝往生伝』には、一条天皇によって輩出した優秀な人材だと記されている。だが、一方で、政略結婚した定子との関係が現代的な「純愛」そのものになり、当時の常識を超越してしまったために、公卿たちの反感を買っている。 日本の最高権威で、それにふさわしい威厳と品位を備え、高い知力を誇りながらも、妙なほど人間臭いこだわりをいだきつづける。そんな複雑な存在であることが、塩野瑛久の演技もふくめて、よく表現されていた。道長ら摂関家が権力を握った時代とはいえ、彼らはあくまでも天皇の権力を代行する存在にすぎず、権力の源泉は天皇にあった。 最高権力を握った道長については、紫式部との恋愛というファンタジーに力点が置かれるあまり、政治家としての実相が見えなくなるきらいがあったが、それを天皇が補っていた。その意味では、道長と対立して譲位に追い込まれた三条天皇も、当時の宮廷における権力闘争を過不足なく映し出す鏡になっていた。