【死者8名】松本サリン事件から30年、あれから日本の「テロ対応力」はどれくらい向上したのか
(ジャーナリスト・吉村剛史) 長野県松本市の住宅街で猛毒サリンが噴霧され、8人が犠牲となったオウム真理教による松本サリン事件が6月27日、発生から30年を迎えた。殺傷能力が極めて高い神経ガスが一般市民に対して無差別に使用された人類史上の事件だった。この松本サリン事件と翌年3月の地下鉄サリン事件は、化学兵器を用いたテロに対する日本社会の脆弱性を露呈させたが、現在その弱点は克服されたのか。 【近影を見る】日本社会の有事への意識の低さを危惧する台湾出身で米国在住の化学者、杜祖健氏(93) ■ 科警研から突然の協力依頼 「テロなど有事に対し日本はもっと国家レベルでの危機感を強くせねば……」 松本サリン事件発生直後、日本の警察庁の要請に応じて米軍が持つサリン分解物の土壌中での毒性や分析法を教示し、一連のオウム事件解決の糸口を提供した台湾出身で米国在住の化学者、杜祖健(と・そけん、英語名Anthony TU=アンソニー・トゥ)氏(93)=は6月27日、一時帰郷中の台北市内で筆者のインタビューに応じ、日本社会の有事に対する意識の低さに警鐘を鳴らした。 「サリンは揮発性で空気を調べても検出できない。しかし当初日本の警察は空気の分析に固執していたようだ。事件前、私は日本の雑誌『現代化学』に『猛毒「サリン」とその類似体』という論文を発表していたが、事件直後にこれに注目した警察庁科学警察研究所が私に連絡してきて、『サリン分解物の土壌中からの検出法を教えてほしい』と言ってきた」 松本サリン事件は発生当時、米国ではさほど大きく報じられてはおらず、杜氏が事件に関わった発端は、このような経緯だった。
とはいえ杜氏は元来ヘビ毒の専門家で、米陸軍に生物兵器研究で協力する立場にあったものの、サリンなど化学兵器分野にはその道の専門家が別にいた。 「結局、軍を通じてその専門家に連絡をつけ、軍に『日本の捜査機関の要請に応じて協力してもいいか』と確認したところ、軍は『検討する時間をくれ』という。軍事上の情報という性質上、数週間単位で待たされるものと思ったが、その翌日に『OK』との返事があったので、さっそく専門家から入手した30枚分の資料をFAXで警察庁に送信した」 これが奏功して、翌1995年3月の地下鉄サリン事件などを含む一連のオウム真理教関連事件はその後、教団幹部らの逮捕につながり、公判を通じて全容解明にいたった。 ■ オウムによる犯行を確信しながら検挙に手をこまねく 「ただ1995年元日には日本の一部新聞報道が、警察が当時オウム真理教の拠点だった山梨県上九一色村の土壌からサリン残留物を検出したことを独自に報じた。その後オウム真理教側はサリン製造の証拠を隠滅しようとし、廃棄しきれなかった分が同年3月の地下鉄サリン事件で使用された。警察、メディアの足並みがそろわず、捜査中に新たな化学兵器テロの発生を許したことになる」(杜祖健氏) 杜祖健氏の協力もあり、警察は早い段階から密かにオウム真理教による犯行と睨み、上九一色村にある教団施設周辺の土壌からサリン残留物を検出していた。だが、その情報が報道機関にすっぱ抜かれたことで教団側に対策をとる余裕を与え、警察が予定していた教団本部施設への一斉捜索の前々日に、地下鉄サリン事件を起こさせてしまった。 「そもそも日本の警察や自衛隊に生物・化学兵器に対する研究や備えがなかったことも含め、テロ、有事に対する日本の警戒心の薄さを露呈した事件でもあった」 事件発生30年の節目に、杜氏は改めて事件当時振り返り、当時抱いた感想をもらした。