「体動かなくても、口動く限り証言」 福岡市原爆被害者の会の願い
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェー・オスロで開かれる。福岡県内の被爆者団体「福岡市原爆被害者の会」は高齢化に伴い会員が年々減り続けているが、被爆者は「今回の受賞は我々の活動のゴールではなく、核兵器がなくなる世界を実現するための新しいスタートだと思っています」と語る。【日向米華】 【写真で見る】迫り来る雲、血だらけの母の瞳… 描かれた被爆体験 「80年目を待っていたら、果たして原稿を書いてくれる人が何人残っているだろう。そう不安になった」。 「福岡市原爆被害者の会」は2023年、これまで10年ごとに発行してきた被爆体験の証言集を25年の戦後80年を待たず、2年も早く製作した。同会では毎年20~40人の被爆者が亡くなり、高齢化による退会を余儀なくされている。編集の中心的な役割を担い、10歳の時に長崎で被爆した福岡市西区の松本隆さん(89)は「後世に被爆の実相を伝えるために今できることは何かと考えた末の判断だった」と語った。 23年にまとめた被爆体験の証言集「七十八年目の証言 全ての人に知ってほしい!被爆の実相」は、県の協力も得ながら、非会員にも被爆体験記の募集を呼びかけ、市内外から59人の証言が集まった。原稿は3班に分かれた編集メンバーが丁寧に確認し、言葉の意味が通じない部分などは本人や遺族に確認して修正した。松本さんは「あくまでも本人の気持ちを正確に伝えるべきだと思った。編集は悩みながらの作業だった」と振り返る。 同会は同年、被爆体験を絵画にする「被爆体験絵画プロジェクト」も実現させた。「原爆投下時に(地上から)見た原子雲の怖さを言葉でうまく表現できずにもどかしかった」。こんな思いを長年抱えていた松本さんが発起人となり、芸術学部のある九州産業大(同市東区)に協力を依頼するなど、より幅広い被爆体験の継承に奮闘してきた。 24年7月末には、松本さんが原爆投下直後に見上げた「黒・赤・白・紫色の渦巻く雲」を大学生が一枚の絵に仕上げた。松本さんは早速この絵を見せながら語り部活動を始めており、「戦争を経験していない若年層にも原爆の恐ろしさや非人道性を知ってほしい」と切実に願う。 継承の難しさに日々直面する中、今回のノーベル平和賞受賞は同会の活動にも大きな後押しになっている。長崎や広島では市の事業として確立している伝承者の育成についても、若い会員への勉強会を設けるなど注力する。今年も30代の女性が最年少の語り部として活動を始めたばかりだ。 また松本さん自身も次なる段階として「核兵器のない世界にするためにはどうすればいいか」と、学生らと議論する交流型講話の準備を進めている。25年の戦後80年を来月に控え、被爆者や被爆体験者は確実に減っていく。松本さんは「これまで懸命に活動してきた方々の長年の努力の結果が今回のノーベル平和賞です」と今は亡き仲間たちに思いをはせる。そして、25年1月に迎える卒寿を前に気持ちをこう新たにしていた。「喜んでばかりはいられません。体が動かなくても口が動く限りは被爆体験を証言し続けますよ。核兵器が簡単になくなるとは思いませんが続けることが大事です。思いを同じにする人が多くいると信じています」 ◇証言活動する被爆者会員は8人のみに 厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ被爆者数は、2024年3月末時点で福岡県が4311人と、原爆が投下された広島県(5万1275人、広島市も含む)と長崎県(2万5966人、長崎市も含む)に続いて3番目に多い。同会は日本被団協と同じ1956年の設立以降、被爆者らの医療や健康上の問題に寄り添いながら、核兵器廃絶運動や被爆体験の伝承活動などを重ねてきた。 だが、68年という活動の長期化と共に会員の高齢化も進んだ。事務局が会費の納入資料を基に確認したところ、結成当時は約160人だった会員は、87年の約1600人が最も多かった。ところが2000年には1000人を下回り、23年は約500人にまで減少した。このうち被爆者(正会員)は約390人で、さらに同会で証言活動する被爆者は8人(24年11月時点)だけとなった。 現在は被爆2世や3世らからなる「準会員」と一般の「賛助会員」と手を携えながら、証言活動、相談活動、広報活動、総務の4委員会で活動している。同会の柴崎二也事務局長(78)は「被爆者が少なくなる中で、今後も会の活動を続けていけるかどうかの過渡期に来ている。マンネリ化しない活動内容や時代にあった運営のあり方など、試行錯誤を重ねていきたい」と今後を見据えた。