標的の癌細胞だけを免疫システムが狙い撃ち...進化型AIを駆使した「新たな癌治療」とは?
遺伝子変異やタンパク質の大量データをAIモデルが処理。標的と定めた癌細胞を免疫システムが破壊する
いい知らせではないと、サーシャ・ロスは思った。大腸とリンパ節に癌を抱え、5週間にわたる放射線治療が始まる予定だった日の2日前、担当医が診療時間外に電話をかけてきて、おまけに「座って聞いてください」と話を切り出したのだ。 【動画】反対方向を向いた2つの顔...珍しい「双頭」の子牛が生まれ、「驚きの姿」に衝撃と心配が広がる ロスはそれまで、初の参加者として、新たな免疫療法薬の臨床試験を受けていた。この薬剤は早期段階の患者の癌細胞に対し、体の自然な免疫反応を解き放ち攻撃する仕組みになっている。 結果は奇跡的だった。参加者の完全寛解率は100%。試験の設計者で、米メモリアル・スローン・ケタリング癌センター(MSKCC)内科部門固形腫瘍科長のルイス・ディアスによれば、癌治療臨床試験の歴史上、おそらく初めてのケースだ。 この結果が示唆するように、新たな治療は(早期に実施されれば)つらい副作用が懸念される従来の化学療法や放射線治療、手術を不要にする見込みがあるだけではない。癌そのものを治す可能性を秘めている。 ロスに電話してきた担当医は、癌がゼロになったと大喜びで告げた。もう放射線治療は全く必要ない、と。 ディアスの臨床試験結果は昨年、医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンに発表され、癌研究者に驚きを与えた。アメリカで年に約61万人が死亡する癌は深刻な問題だ。その苦痛や不安から多くの人を解放する可能性のある新たなアプローチに期待が膨らんだ。
「3次元チェス」をする難敵
ただし、今のところは単なる期待にすぎない。ロスらの場合は成功したが、免疫療法が効くのは患者の5人に1人ほど。どの患者なら効果的か、事前に見極めるすべもない。 当初の楽観ムードは消え去り、最近では癌研究の世界でおなじみの挫折感が再び頭をもたげている。こちらはチェッカーゲームをしているのに、驚異の変異能力を持つ癌は「3次元チェス」をプレーしている──人類と癌の長い戦いで、腫瘍学者はそんな感覚に陥ることが珍しくない。 その意味で、ディアスが行った臨床試験は、実現するかもしれない未来の魅力的な姿を垣間見せてくれる。同時に、そうした未来像を現実にするため医学に何が求められているかも、ありありと教えてくれる。 多くの腫瘍学者が指摘するように、楽観視すべき根拠は豊富にある。新しいイメージング技術のおかげで、腫瘍の内部や周辺のタンパク質の位置、およびタンパク質の相互作用について、正確なデータが入手可能になっている。 取得した大量のデータは、進化したAI(人工知能)によって解析できる。患者それぞれの腫瘍の遺伝子構造を、迅速かつ安価に確定できるシークエンシング技術を組み合わせれば、数年前はあり得なかったことが今では可能だ。 「腫瘍の断片から個々の細胞の特性を評価し、膨大な量の情報を取り出すこともできる」。NPOのシステム生物学研究所を率いる生物工学者のジェームズ・R・ヒースは、そう話す。「AIモデルは大量のサンプルを処理して、複数の仮説を提供する。大変革が起きるかもしれない」 現在、AIが設計した初の抗癌剤が臨床試験中で、2番手や3番手の開発も進む。AIベースの新薬開発への投資は2018~22年に3倍増を記録し、246億ドル規模に達した。 癌は実に複雑で、人間の理解力では捉え切れない。癌細胞の変異はどれほど優れた治療も阻害しかねず、しばしば免疫系を停止させる。その仕組みを理解し、癌への攻撃スイッチを入れる新たな方法を開発するには、患者それぞれの癌がそれぞれの時期にどんな活動をしているか、分子レベルのデータを入手することが不可欠だ。 だが癌研究者は長年、目隠し状態も同然で、実態を判別する能力をほぼ持たないまま治療を目指してきた。癌との戦いの歴史は、目隠しを少しずつ取り払ってきた道のりでもある。 多くの専門家は20世紀になっても、免疫システムが助けになるとは考えていなかった。ミクロの侵入者を見張る軍団のように体内を循環する免疫細胞の力は評価していたが、癌細胞は正常細胞と酷似しているため、免疫系は侵入者として認識できないという説が主流だった。見分けがつきにくいからこそ、標準治療の根治的乳房切除法や放射線治療、化学療法では、両者を区別せずに破壊する。