長嶋茂雄も王貞治もぶん殴っていた。野球界はなぜ体罰を根絶できないのか―日本野球と体罰の歴史を追った1冊が解き明かす“この国のすがた”【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】
当然の帰結
1872年、お雇い外国人教師がボールやバットを日本に持ち込んだところから野球の歴史が始まった。 〈当時の野球は、遊び仲間から「常連」となった者を中心にして、学校の公認や経済的援助のないインフォーマルな集団での活動であった〉【3】 その中心は、社会的エリートを養成するための東京帝大(現・東京大学)や慶応義塾大学、東京商業学校(現・一橋大学)を始めとした高等教育機関だった。1886年の発足からほどなく、旧制高校の頂点に位する野球部は黄金時代を迎える。そして「当然の帰結」として猛練習や制裁が生まれ、学生野球界の覇権を失うにいたった。日本野球における「体罰発生の方程式」が、基本的には一高の帰趨と相似形であることを立証したのが、本書の眼目のひとつである。 そして、じつはこの方程式が、著者の想定した野球という枠組みを超え、まさにいま日本が打ち出しつつある「労働力としての移民政策」の不健全性を裏付けるものであるというのが、本コラムの眼目となる。
純文学余技説
野球(部)は当初、純粋な余技であった。余技とは〈専門以外にできる技芸〉【4】の意だが、ここでは昭和初期に活躍した小説家、久米正雄の言葉「純文学余技説」を便利使いするのがよいと思う。「文学というものは、大なれ小なれ、生活の救抜を目的としているものだが、その救抜の本式の形は余技であって、職業化されてはならない」。 久米は「もっとも大切なもの(純文学)」と「生活のための仕事(大衆小説)」を、同じ地平で語るべきではないと主張した。当時、彼は大衆小説作家として大きな財産を築いており、「余技説」は、自身が量産していた作品の質に対する藝術面からの批判を避けるための方便でもあった。 小説という藝術作品の本来性(良さ)を守るためには、どうすべきか。大衆小説は食うための職業に過ぎない。職業は金を稼ぐためにおこなうもので、そこに藝術性を求めるべきではない。藝術性は安定した生活の上で展開される余技でこそ十全に発揮されるべきだ。仕事に「正しさ」など求めないでくれ――。