遠藤彰弘氏#1「鹿児島実業の練習はきつかった.....とにかく走ることとメンタル」
鹿児島実業(鹿児島)から1994年に現横浜F・マリノスに入団。“マイアミの奇跡”で知られる1996年のアトランタ五輪では背番号10を背負った遠藤彰弘氏にお話を伺った。 ーーサッカーを始めたきっかけを教えてください 生まれが鹿児島の桜島で、少年サッカー団に入って小学校3年生からサッカーを始めました。その前に遊びでボールは蹴っていたんですけど、本格的にチームに入ったとか、そういうのは3年生からで、ちょうど僕の兄の遠藤拓哉が2つ上にいるんですけど、兄を追っかけてボールを蹴っていた感じでした。というので、ほぼ毎日練習で、休みはほとんどなかったぐらい、ずっと練習を小学校6年生までやっていた感じですね。 朝、遠藤家の家の前の土のところで、 毎日朝大体6時半ぐらいからちょっと軽くボールを蹴り合いながら、近所の人たちも勝手に集まってきて、ミニゲームが始まって。そこからボールを持って学校までまで歩いて、いまは多分怒られるんですけど、僕は結構ドリブルして行っていました。学校の休み時間もずっと校庭に出て、ボールを蹴って、 だいたい15時ぐらいに終わっているのですけど、そこからまたずっと練習を20時ぐらいまでやって、ボール蹴って家まで帰るというのは、ほぼ毎日のようにやっていました。 ーー高校は名門鹿児島実業を選ぶわけですけど 思いっきり兄貴の影響ですね。もう、僕の場合は自動的に鹿実に行くことが決まっていて。僕の役目は城(彰二)を説得することだったので。 あいつがいろんなオファーが来ている中で、僕が城を説得する役目に中3の時はなっていて(笑)。 城は中2の時に鹿児島に来た中で、蹴るところも全然違っていたり、もうなんかちょっとひとり別世界という感じでしたね。代表も入ったりとかするので、なんか良い目標っていうか、目線は変わったのは確かにありますね。 ーー練習自体もだいぶきつかったですか? いやぁ、もうきついですね。城もよく言っているのかもしれないですけど、多分もっともっとすごかったですよ、鹿実の練習は。本当に技術とかは、勝手に僕らは覚えていった感じがあって、もうとにかく走ることとメンタル。とにかく走りました。ダッシュ期間みたいなのもあって、走ることだけなのですけど、それがテスト期間中に走る期間があるのでテスト勉強なんかできるわけないじゃないですか。そのダッシュ期間はきつかったですね。 ーー鹿実での3年間について 1年生の時は兄貴がいた部分もあって、僕はちょこちょこしか出てなかったのですけど、まずゾノ(前園真聖)さんがめちゃくちゃ怖かったです(笑)。あと、兄貴は兄貴で、僕に優しくわざとしないのです。なんかほっとかれているって感じだったので。藤山竜仁さんもいて、なんかもうとりあえず1年生の時はもう自分は出せない感じでやっていました。 2年の時は最後選手権も負けて、3年生になって、なんとなくやっと自由にできたかなと。その中でインターハイ、全日本ユース、選手権、3つの大きい大会で、ある程度まで行けたのは、2年生の時に城と2人で結構試合に出させてもらったのでそこは繋がったかなと思います。 ーー高校時代チームメイトであったり、マッチアップした選手で、すごかった選手はいらっしゃいましたか? 僕、1番すごいのは今でもゾノさんだと思っているんです。同じチームだったですけど、「あの人を止めるの大変だろうな」っていうぐらい、やっぱちょっと抜けていましたね。もちろん城もそうですけど、身近にすごいレベルが高くて、モチベーションも高くなるような人がやっぱり鹿実にいたのは、大きいですね。もちろん、遠藤拓哉も抜かなきゃいけないっていう、そういう意味では鹿実でよかったなっていうのは思います。 #2に続く。 (文・写真=石黒登)