中将は漏らした「統率の外道だ」 真珠湾で開戦した日本、特攻への道
日本軍が米ハワイ・真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃してから8日で83年。日米の戦争は当初日本軍が優勢だったが、やがて国力差を背景に米軍におされ、開戦3年足らずの44年10月には「特別攻撃(特攻)」を組織的に展開するようになる。 【動画】初めての「神風特別攻撃隊」出撃について伝える日本のニュース動画=1944年、米国立公文書館所蔵 東南アジア進出などをめぐって米国と対立した日本は、1941年12月8日(日本時間)に米海軍の拠点だったハワイ・真珠湾を空母部隊で攻撃。フィリピンやマレー半島、シンガポールなども数カ月のうちに占領した。 しかし、42年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、徐々に劣勢になる。44年7月にサイパンが陥落したころには、日本海軍の航空戦力はほぼ消耗していた。 旧防衛庁防衛研修所がまとめた公刊戦史・戦史叢書(そうしょ)によると、フィリピンに米軍が迫る中、海軍第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将が最初の特攻隊を編成したとされる。 大西中将の部下が戦後出版した「神風特別攻撃隊」(猪口力平、中島正共著)には、最初の作戦実施直後の様子が記されている。 大西中将は、日本の作戦指導の拙(つたな)さを嘆いたうえで、こうつぶやいた。「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」 以後、日本軍は特攻作戦を拡大させ、「特攻兵器」も次々と開発していく。大型魚雷に操縦室を取り付けた「回天」や、250キロ爆弾を積んだベニヤ板製モーターボート「震洋」、爆弾を船尾に積んで敵艦近くで海中に投下する小型艇「マルレ」なども配備された。 出撃した多くは、20歳前後の若者だった。戦死者は6千人とも言われる。(関口佳代子)
朝日新聞社