貯蓄、投資そしてお金との付き合い方を考えてみた。文筆家・川島如恵留(Travis Japan)
私はこの1年で自分に幾ら使ったかを全て把握している。家計簿をつけているから、支出に関してはきちんと理解しているつもりだ。マイナスにならないように調整している。 職業柄、収入に関しては非常に不安定であるのが現実である。来年もまた同じだけ稼げる保証はどこにも無い。そうなると、入った分だけ使えるという考えは私のような職業を選んだ人間にとっては間違いだから、よりシビアに額面と向き合う必要がある。 もし急に、我が子から習い事をしたいと言われた時に、病院代が掛かるとなった時に、余裕を持って支払えるような能力が有り続けるかと言われると、正直怪しい。 だからこそ、一般的な社会人をやりながら、なんとかやりくりしてやってのけた両親に、特大の賛辞を贈りたい。 両親が私に掛けてくれたお金と時間と労力の数々は、私の中に蓄積されている。あの時の1レッスンが、1授業が、1枚が、私の一部として今も生きている。 今の私からその一部を取り出して換金する、なんて事は出来ないが、その代わりに言葉として取り出す事は出来るのだ。「ありがとう」という感謝の言葉として。 将来の為にお金を取っておく。箪笥にしまっておく。口座に眠らせておく。それも良いだろう。決して悪い選択では無い。 未来の為に取っておくお金として年間数十万円でも貯める事が出来れば、ここぞという時に充てがう事が出来る。素晴らしい事だ。 これまでの私に掛けたお金を全て口座で眠らせていたら、きっと数百万円は下らないだろう。数千万円残っていたかもしれない。 私の経験を全て金額に換算することは難しいが、子供を1人育て上げるのに掛かる費用の平均が大体3000万円と言われていて、それに加えて相当額のレッスン代や教育費が掛かった筈だから、やはりお金は大分掛かっている。 私に一切お金を掛けず、必要最低限で育て、二十歳になった時や高校を卒業して社会人になった時などに「これが貴方に掛ける予定だったお金だよ。」と掛かる筈だった教育費を親が私に手渡したとしたら、私は同じように感謝出来るのだろうか? 私はどう思うのだろうか? 今の自分が感じる思いと同じように感謝の言葉を渡す事は出来たのだろうか? どんなに少額だったとしてもお金を受け取れるのであれば嬉しいのだろうが、受け取る側の私はきっと今とは別の価値観を持って育っているから、その感謝の種類は別物だろうし、その使途は全く違うものになっていた可能性がある。そのお金で、実際に私が受けることができた教育や経験を、時間差で得ようとするかもしれない。どのみち経験するのであれば大概のことは早い方が良い。そのこと自体に気が付くのも遅くなっていたのかもしれない。そう考えると、諸手を挙げて喜べるか、正直怪しいところだ。 私の中に落とし込まれたお金はもう取り出せない。それは事実だ。 私達の中に注ぎ込まれた、お金を引き換えに手にしたサービスを、教育を、価値観を、現金に変換する事は出来ない。 取り出せはしないが、その自分だから生み出せるお金はある筈なのだ。言葉はある筈なのだ。 今の貴方の中には、親御さんが注いでくれたお金もあれば、勿論御自身で投資したお金もあるだろう。 その金額に相当する価値のある人間になれているかどうかなんて誰にも分からない。それは貴方自身が決める事だからだ。