映画『ソウルの春』──おもしろいというのが憚られるほど生々しい歴史サスペンス
1979年10月26日、独裁者と言われたパク・チョンヒ(朴正煕)大統領が側近の手によって暗殺された。民主化を期待する国民の声が高まるなか、独裁者の座を狙いクーデターを企てる者がいた。本作は史実に基づき、クーデターの首謀者であるチョン・ドゥグァンとそれを阻止しようとした高潔なイ・テシンの9時間に渡る攻防を生々しい緊張感をもって描いた歴史サスペンスだ。 【写真を見る】当時の衣装や小道具を正確に再現した『ソウルの春』をチェックする
プラハの春ではなく、ソウルの春
題名となっている「ソウルの春」は、1968年のチェコスロバキアにおける「プラハの春」にちなんだ呼び名で、1979年10月26日のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領暗殺から始まる韓国の民主化期間を指す。プラハの春同様、これもまた軍事勢力によって短期間で断ち切られることになるのだが、プラハと違うのは、こちらを終わらせたのが自国の軍であったことだ。映画は「春」の部分ではなく、一部軍人によるこのクーデターに焦点を絞る。クーデターの首謀者、チョン・ドゥファン(全斗煥)をモデルとする人物チョン・ドゥグァンを、特殊メイクで演じるのはファン・ジョンミン。反乱軍に立ち向かう高潔な首都警備司令官イ・テシン役はチョン・ウソン。この2大スターの顔合わせも話題だ。 ■『ソウルの春』のあらすじ 物語前半は以下のとおり。大統領暗殺後、参謀総長チョン・サンホ(イ・ソンミン)は、チョン・ドゥグァンらが所属する軍内の秘密集団「ハナ会」(日本では「ハナフェ」「一心会」とも呼ばれる)の動きに危険を感じ、その勢力をそごうと試みていた。ドゥグァンは第9師団長ノ・テゴン(パク・ヘジュン)を右腕に、クーデター決行を決意。12月12日夜、暗殺関与の嫌疑をかけて参謀総長を拉致する。首都警備司令官イ・テシンが反乱鎮圧の現場指揮にあたるが、後方にいる軍首脳陣の方針は混乱。ドゥグァンの狡猾さを警戒する憲兵監キム・ジュニョプ(キム・ソンギュン)は強硬策を主張するが、参謀次長らに却下される。そのあいだに反乱軍はハナ会のコネクションを利用し、前線(北に対する警備)にいた空挺旅団をソウルに呼び寄せる。旅団が市内に入れば内戦勃発は必至。テシンらは、首都が火の海となるのを防ぐことができるのか──? ■本作の前後に起きた事件を描いた数々の映画も 独裁者として悪名高いチョン・ドゥファン大統領の時代は、これまで多くの映像作品の題材になってきた。本作の発端でもあるパク・チョンヒ大統領暗殺を描いたのが、映画『KCIA 南山の部長たち』(2020)。チョン・ドゥファンの政権掌握につながった、1980年5月の光州事件(民主化運動弾圧事件)を描いたのが『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017)。1983年のチョン・ドゥファン暗殺未遂事件をゆるやかにベースにしているのが、イ・ジョンジェの監督・主演作品(チョン・ウソン共演)『ハント』(2022)。テレビドラマ『第5共和国』(2005)は、チョン・ドゥファンの権力奪取から没落までを41話にわたって描いている。彼の恐怖政治が終わるには、傑作『1987、ある闘いの真実』(2017)に描かれた、1987年の6月民主抗争を待たねばならなかった。 これらの作品とは異なり、『ソウルの春』の登場人物は、モデルになった実在の人物とは違う名前がつけられている(注)。名前を変えたことにより、各キャラクターの性格や言動は、実在の人物に過度に縛られることなく、比較的自由に創造することが可能となっただろうと思われる。 ■分単位で形勢が逆転していく映画ならではの攻防戦 12月13日の明け方まで続いた軍事クーデターについては、参謀総長邸で銃撃戦が起きたのが何時何分だったか、漢江の橋が封鎖されたのがいつだったかなど、タイムラインが正確にわかっている(この映画にもそれらの時刻は映し出される)。しかし、そうした出来事のあいだをつなぐ時間に起きていたことについては、記録されていない部分が多い。監督たちは、この時間に反乱軍・鎮圧軍それぞれの内部で何が起きていたのかを、想像力と劇的論理性をもって構築していった。その結果生まれたのが、大量の登場人物ひとりひとりが存在感を放つと同時に、複数の場で発生する各出来事が矢継ぎ早に描かれ、観客の関心を決して逸らすまいとする映画である。まずはこの脚本構成力を讃えねばならないだろう。 ■当時の美術を再現し、ビジュアルはリアルに 一方、映画内に登場する場所や小道具、衣裳などは創作ではなく、徹底的に当時のまま再現されている。監督キム・ソンスは19歳のとき、実際にこの軍事クーデターの光景を目撃した。当時の自分や周囲の人々が受けた衝撃を、現代の観客に体感させることが、彼の最重要目標のひとつとなった。 ならば映像スタイルがドキュメンタリー志向かというと、そうではない。黒光りする闇を官能的に強調した画面は、キム・ソンスの前作で、やはりチョン・ウソンとファン・ジョンミンが主演した、あの血まみれのノワール『アシュラ』(2016)を彷彿とさせる(実際、撮影・照明・美術といった、画面のルックを決定する主要スタッフは『アシュラ』からそのまま引き継がれている)。プロットのかなりの部分はじりじりとした交渉や駆け引きから成り立っているが、映画が停滞することはない。会話シーンはほぼ常にアップビートに進行し、ここぞというところで活劇シーンと交錯する。ドラマチックな編集のリズムがとても見事だ。 ■歴史を客観的に見直すことの重要性 これは歴史的事件を描いた映画だから、結末がどうなるかはわかっている。しかし観終わったときわたしたちは、あまりのことに「どこが分岐点だったのか」と呆然とし、最初から観なおしたい気持ちに駆られるだろう。現実に起きた事件の映画化は、事件を単純なエンタテインメントとして消費し、搾取してしまう危険性を常にはらんでいるけれど、それだけでなくやはり、歴史を記憶し、再検証する機会をも与えてくれる。韓国映画はそのことをたびたび教えてくれるのであり、この作品も例外ではない。 (注)チョン・ドゥグァンだけでなく、この映画で台詞が与えられている登場人物は、ほぼ全員モデルがいる。イ・テシンにあたる実在の首都警備司令官は、民主化後の2000年からは国会議員も1期務めたチャン・テワン(張泰玩)。チョン・サンホに相当する人物の名はチョン・スンファ(鄭昇和)。ノ・テゴンのモデルは、チョン・ドゥファンの次に大統領となったノ・テウ(盧泰愚)である。 『ソウルの春』 8月23日(金) 新宿バルト9ほか全国公開 配給:クロックワークス 著者プロフィール:篠儀直子(しのぎ なおこ) 翻訳者。映画批評も手がける。翻訳書は『フレッド・アステア自伝』『エドワード・ヤン』(以上青土社)『ウェス・アンダーソンの世界 グランド・ブダペスト・ホテル』(DU BOOKS)『SF映画のタイポグラフィとデザイン』(フィルムアート社)『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』(青土社)など。 文・篠儀直子、編集・遠藤加奈(GQ)