ゆりやんレトリィバァ×白石和彌 監督が語る エネルギーが満ちていた80年代のあの熱い時代を描く 「極悪女王」
その役で生きる、80年代のあの熱い時代を生きる
池ノ辺 実際にプロレスをするための準備も大変だったんじゃないですか? 白石 クランクインするまで、まず半年練習して、そこから半年かけて撮影しました。撮影の最中にも、「誰それさんが、ジャーマン・スープレックスできるようになりました」と報告が来たりして、「ええ? 本当に大丈夫?」「大丈夫だってみんな言ってます」みたいなやりとりをしてました(笑)。体つきも、当然、入門当時とプロデビューしてスターになってからでは違うんだけれど、そういう変化もリアルに表現できて、こんな作品は二度とないだろうなと思いました。 ゆりやん 部活みたいでしたね。みんなで毎日のように電車に乗ってバスに乗って、長与千種さんとMarvelousさんの道場に通わせていただいて、そこのジムでトレーニングしたり。ほんとに青春という感じでした。あと、試合のシーンの撮影は、みんな撮影じゃなくて試合と呼んでいました。 白石 本当に試合でしたよ。朝、体育館に行ったらスタッフが椅子を並べていたり、リング上ではみんなストレッチとかしていて、そのうちに「ぼちぼちお客さん入りまーす」みたいな(笑)。本当に試合みたいだったよね。 ゆりやん そうなんです。撮影中とか、みんな仲良いんですけど、撮影が進むにつれてどんどん気持ちも熱くなってくるんです。劇中、役でも自分の地位も上がってきますし、とにかく熱い人たちになっていきます。髪切りマッチのシーンで、レフェリーのホセ・トレス役のフェルナンデス直行さんと、ホンマに喧嘩しました。昼休みに、「ちょっと話いいですか」とか(笑)。 池ノ辺 それだけ燃えちゃったんですね(笑)。どんどん、ダンプさんになっていった。 ゆりやん 私だけじゃなくて、みんなそうでした。唐田えりかちゃんも長与千種さんに見えるし剛力彩芽さんもライオネス飛鳥さんに見える。その場面では、誰役の誰それというより、そのままその役として生きていたという気がします。 池ノ辺 ダンプさんの生き様にも触れていたわけですが、そこはどう感じました? ゆりやん ダンプさんは、子どもの頃に女子プロレスを見て私もこうなりたいと思って、ずっとまっすぐにピュアにその道を一直線で行かれた。私も子どもの頃に吉本新喜劇を見て、8歳の頃からずっと吉本に入りたいと思っていたんです。なので、そこはすごく共感しました。そしてダンプさんは、そういう子どもの頃の思いから、いろんな思い、経験をされて、でもその道を生きて自分を確立されていかれた、それは本当に尊敬しますし、かっこよかったです。実際、ダンプさんをはじめとして、80年代にこれだけ日本中を巻き込んで熱狂させる女性たちがいたんだというのがすごいと思いました。 池ノ辺 それは本当にすごかったですよね。みんなテレビ見て、歌って。 白石 本当にやばかったです(笑)。 ゆりやん 逆に今は選択肢が多くて見るものがいっぱいある。当時はテレビが主流で、みんなが一つの方向に向かって、一つの敵に向かってヤジ飛ばすみたいな時代だったんでしょうね。 白石 バブルで日本の経済も大きくなっている頃です。映画でも、角川映画みたいなメディアミックスで作品自体を世の中の大きなうねりにする、そういう時期ともシンクロしていた。いろんなメディアを使って一つのものが一気にドカンと爆発するようなエネルギーが満ちていた、そこが80年代らしいところです。 池ノ辺 それが次の日の元気、活力になる。そういう時代でしたね。監督から見て、ゆりやんさんの演技はいかがでしたか。 白石 最初は大丈夫なのかなというのはありましたけど、スタートして彼女の芝居を見た時にはもう、なんの不安もなかったですよ。 池ノ辺 顔つきもどんどん変わっていきましたよね。 白石 ゆりやんのネタにアメリカのアカデミー賞で受賞スピーチをするというのがあるんですけど、いや、意外とあるかもなと思いました。 ゆりやん 10年くらい前にコントでやってたんです。これだけは言わせてください。私たちは和彌監督の笑顔を見たくてめっちゃ頑張ってたんです。 白石 ありがとうございます。でも常に笑顔だったと思うけど。 ゆりやん それはそうなんですけど、いつも撮影の時にはリハーサルでもテストでも本番でも、和彌監督はモニター見ながらチェックされてて、笑ってくれて「いいねー」とか「最高だね」っていう声が聞こえてくるのがみんなめっちゃ嬉しくて、「和彌監督笑ってくれてる。この感じでいこう!」って、そのために頑張ってました。和彌監督が太陽だとしたら私たちがひまわりのような(笑)。 池ノ辺 かっこいい!(笑)。でも本当にそういう感じで撮影されていたというのが素敵です。