なぜいま野上弥生子なのか? 「ケア」を語る英文学者が惹かれた理由
---------- ベストセラーとなった『ケアの倫理とエンパワメント』はじめ「ケア」を新たな視点で語って話題を呼んできた英文学者・小川公代さん。最新評論『翔ぶ女たち』の構想は、明治から昭和にかけて活躍した小説家・野上弥生子とジェイン・オースティンの意外な関係を知ったことから始まりました。なぜ英文学者の自分が野上弥生子に夢中になったのか? 野上弥生子の生涯と作品を現代の表現者たちの言葉につなげて語る『翔ぶ女たち』から「はじめに」を公開します。 ----------
女性たちの抵抗の物語
2013年にイギリスの母校でジェイン・オースティン『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813)200周年記念学会が開催されたのですが、その学会で発表することがきっかけとなり、野上弥生子(1885~1985年)の作品に出会いました。そして、大分県臼杵市出身の作家である弥生子が日本で最初にこのオースティン作品の翻案小説『真知子』を書いたことを知りました。 彼女は、99歳まで現役作家として活躍し、『真知子』以外にも、『海神丸』『迷路』『秀吉と利休』『森』などを発表しました。いずれの作品にも女性の心理的な葛藤が繊細に描かれています。九州の田舎町で生を受けた少女がいったいどのようにして、両親を説得して上京し、その後、作家の道へと進んだのか、野上弥生子という女性に俄然興味が湧きました。なぜなら、彼女が生きた時代というのは、明治民法によって男子を中心とした家制度が確立し、妻は夫の許可がなければ勤労をはじめとする、さまざまな契約を結ぶことさえできない封建的な時代だったからです。 知的探究心のあった弥生子は、15歳で上京することを強く希望し、知人の紹介で明治女学校普通科に進学することができました。その後、同郷の野上豊一郎と結婚し、彼を介して夏目漱石と出会います(*1)。その頃、時代は大きく変わり始めていました。弥生子がいくつもの翻訳を掲載することになる文芸誌『青鞜』の版元である青鞜社が誕生したのは、明治時代が終焉を迎え、大正時代がスタートする大正元年(1912年)の前の年でした。 弥生子は、その後、第二次世界大戦をも生き抜きます。このめまぐるしく変化する時代に女性として経験した困難や生きづらさこそが弥生子の作家魂に火をつけたのだと思います。研究を進めていくと、そこには、明治、大正、昭和期の家父長的な要請に屈することなく、しなやかに自由な生を追い求めながら、それでも妻として、母としての葛藤を抱える、ごく普通の女性の姿も浮かび上がりました(*2)。 弥生子はロマンティック・ラヴを追求した青鞜社の平塚らいてうや伊藤野枝とは一線を画する存在ですが、親の決めた相手と結婚することを拒み、豊一郎を選んだ弥生子はやはり「新しい女性」の側面を備えていました。オースティンもまた、フェミニズムといわゆる「家庭の天使」とのあいだで揺れ続けた作家です。30年にわたり、女性の生きづらさをテーマとする文学研究を続けてきた私が、オースティンの葛藤に共感した弥生子に夢中になるのは必然でした。 本書の構想は、このような、弥生子の生涯や作品への関心から始まりました。ただ執筆を始めると、そこには、現代を生きる表現者たちの言葉が、ヴィヴィッドにつながっていることを感じました。 本書は、オースティンと野上弥生子を結ぶ線の延長線上に、今生きている私、あなたがいるという、私自身の問題意識で捉えようとするものです。そして、家父長制の規範に縛られ、苦悩する女性たちと「グローバリズム」「労働」「結婚」「子育て」「魔女狩り」「エコロジー」「戦争」など多種多様な問題とつなげ、論じる試みの書でもあります。現代のさまざまな物語分析を通して弥生子の作品を読むことで、少しでも今の日本において生きづらさを抱える女性たちの抵抗の物語を掬い取ることができたらと思います。 *1 Kimiyo Ogawa, “Austen's Belief in Education: Sōseki, Nogami, and Sensibility,” eds. Cheryl A.Wilson, Maria H.Frawley, The Routledge Companion to Jane Austen (Routledge, 2021). *2 Kimiyo Ogawa, “Nogami Yaeko’s Adaptations of Austen Novels: Allegorizing Women’s Bodies,” eds. Alex Watson, Laurence Williams, British Romanticism in Asia: The Reception, Translation, and Transformation of Romantic Literature in India and East Asia (Palgrave Macmillan, 2019).
小川 公代(英文学者)