後ろ盾なく自らの「才覚」で出世した源俊賢
9月8日(日)放送の『光る君へ』第34回「目覚め」では、まひろ(藤式部/とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)の書く物語が宮中で話題となっていく様が描かれた。一方、藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)は、娘で中宮の藤原彰子(あきこ/しょうし/見上愛)と一条天皇(塩野瑛久)の距離が一向に縮まる気配を見せないことに焦り始めていた。 ■まひろの物語が公卿たちを夢中にさせる 興福寺別当・定澄(じょうちょう/赤星昇一郎)の脅迫を退けた藤原道長だったが、僧兵が大挙して朝堂院に押しかけるという事態に発展した。検非違使(けびいし)に追い払わせて事なきを得たものの、藤原斉信(ただのぶ/金田哲)や藤原道綱(みちつな/上地雄輔)の屋敷が火災に遭ったり、敦康親王(あつやすしんのう/渡邉櫂)が病に伏せたりと、道長の心配事は尽きない。 一方、まひろの執筆する物語は宮中で評判を呼び、公卿や女房たちはこぞって夢中になっていった。一条天皇や、中宮・藤原彰子も例外ではなかった。 そんなある日、土御門邸で曲水の宴が催された。参列した彰子は、屈託なく笑う父・道長の姿を初めて見て驚く。まひろは、公卿も帝も殿御(とのご)という点で変わらず皆かわいいもの、と彰子にそっと耳打ちしたのだった。 都で不吉な出来事が相次ぐことを憂いた道長は、彰子の懐妊と世の安寧を祈願するため、御嶽詣(みたけもうで)に出ることを決意。京を出立した日、道長に憎しみを募らせる藤原伊周(これちか/三浦翔平)は、不穏な動きを見せるのだった。 ■道長や行成に厚く信頼された有能な官僚 源俊賢(みなもとのとしかた)は、左大臣を務めた源高明(たかあきら)の三男として960(天徳4)年に生まれた。母は藤原師輔(もろすけ)の三女。師輔は右大臣を務めた公卿で、藤原道長の祖父にあたる。 まだ幼かった969(安和2)年に、父の高明が謀反の嫌疑をかけられ左遷された。安和の変と呼ばれる事変で、権力闘争を背景にした、道長の父である藤原兼家(かねいえ)ら藤原氏による陰謀といわれている。高明が流罪となった大宰府に、俊賢も同行したらしい。なお、二人の兄は出家、母はこの頃にはすでに亡くなっていたと考えられている。 この事変により一時は将来を危ぶまれたが、975(天延3)年に従五位下に叙爵。以降、順調に昇進し、侍従、左兵衛権佐、右中弁、蔵人頭、右兵衛督などを歴任した。995(長徳元)年に従四位下、参議。なお、父の高明はのちに罪を赦されたものの、政界に復帰することのないまま982(天元5)年に死去している。 蔵人頭に任じられた992(正暦3)年当時は、道長の兄・藤原道隆(みちたか)が関白を務めており、自ら道隆に売り込み、任命された逸話がある(『古事談』)。また、参議に任じられた995(長徳元)年は、妹・源明子(あきこ)が嫁いだ道長が内覧に就任した年であり、いわば俊賢は父を失脚させた仇の子らに引き上げられたことになる。 道隆の没後、弟の道長が政務の実権を掌握すると、道隆一族すなわち中関白家は急速に衰えていく。道長の政敵となった以上、中関白家の衰亡は自然の流れだったが、多くの貴族が距離を置くなか、俊賢は態度を変えることなく、藤原伊周ら道隆(たかいえ)の家族と友好的な関係を続けている。 また、昇進するにあたって蔵人頭を辞任することになった際、のちに書の達人として大成する藤原行成(ゆきなり)を後任に推薦。一族の没落により不遇だった行成が大きく出世を果たすきっかけをもたらした。行成は俊賢の推挙を生涯にわたって感謝し、二人の家族ぐるみの親交は晩年まで続いたという。 1004(寛弘元)年には権中納言、1017(寛仁元)年には権大納言に進んだ。道長に厚く信頼された上、藤原公任(きんとう)、藤原斉信、行成とともに「一条朝の四納言」と高く評価される官僚となった。 その後の動向はよく分かっていない。1027(万寿4)年6月12日に出家し、翌日に没した。享年68。なお、同年の年末に、俊賢の人生において大きな存在としてともに歩んだ行成、道長も相次いで死去している。 俊賢には、昇進のために敵にすらこびへつらうとの批判が多い。公卿・藤原実資(さねすけ)は「貪欲でずる賢い人物」と辛辣に批判し、『愚管抄』や『大鏡』でも「道長にごまをすりどおして保身をまっとうした」と手厳しい。 しかし、貴族社会において出世の大きな後ろ盾となる父を早くに陰謀によって失ったのにもかかわらず、自身の才覚一つで昇進したのは、彼の能力の高さを裏付ける事実と捉えてもよさそうだ。
小野 雅彦