BYD、“パクリメーカー”の汚名を返上し「リチウムイオン電池」で大成長 その背後にあった「非特許技術」の活用とは
人海戦術がもたらしたコスト競争力
こうして、BYDは、日本企業が撤退しつつあったニッケルカドミウム電池市場に参入するという戦略で大きな飛躍を遂げる。この電池は、中国国内で需要が多く、参入障壁が低かった。 当時、日本企業のニッケルカドミウム電池は、高度に自動化された生産ラインで製造されていた。ほとんどの工程は機械によって自動化されており、1本の生産ラインに配置される人員は20人程度だった。 一方、BYDの生産現場は“1950年代の工場”に似ているとまでいわれる様だった。自動化はほとんど行われず、作業は人力で行われていた。生産工程は細かく分業化されており、人間がやれる部分は人間がやり、それ以外は機械に任せるというやり方だった。この人海戦術とも呼べる生産方式は、当時の中国の状況に適していた。豊富な安価な労働力を活用することで、設備投資を最小限に抑えることができたからだ。 これは、当時中国が経済成長の真っただなかにあり、豊富な安価な労働力を活用できたからこそ可能だった。一見非効率的とも思えるこの方法により、BYDは品質を維持しながら大幅なコスト削減に成功した。 データを見ると、当時三洋電機がリチウムイオン電池1個を生産するのに4.9ドルかかっていたのに対し、BYDのニッケルカドミウム電池は1.3ドルで生産できていたことがわかる。実際、三洋電機の3分の1以下のコストだった。この圧倒的なコスト競争力が、BYDの市場シェア拡大につながった。 圧倒的なコスト競争力とそれに匹敵する高品質により、同社は急速に世界市場へと進出を果たした。創業から3年後には、世界市場シェアの40%を獲得するという快挙を成し遂げ、瞬く間に“ニッケルカドミウム電池の王者”にのし上がった。 こうして、1997年のアジア通貨危機で多くの日本企業が損失に苦しむなか、BYDは低コストを武器に利益を確保し続けた。
アジア通貨危機後の進化
BYDがリチウムイオン電池の生産に乗り出したきっかけは、1997年のアジア通貨危機だった。ニッケルカドミウム電池で利益を出していたとはいえ、先行きへの不安は拭えなかった。 そこで、新たな収益源を確保するために、急成長していたリチウムイオン電池市場に参入することを決断した。しかし当時、リチウムイオン電池市場は日本の企業が圧倒的なシェアを占めていた。参入障壁の高さを前に、多くの企業が二の足を踏むなか、BYDは果敢に挑戦者として名乗りを上げた(「リチウムイオン電池における中国企業の知財戦略」『知財管理』Vol.66)。 当初、日本からの設備導入も検討したが、予想をはるかに上回るコストがかかり断念せざるを得なかった。そこでBYDならではの創意工夫が発揮された。BYDは豊富な労働力を活用し、低コスト生産という自社の強みを生かすため、独自の生産ラインと設備を設計しし、機材を開発した。 その一例がクリーンルームである。リチウムイオン電池の製造には高度な品質管理が不可欠であり、特に製造工程はほこりに敏感である。日本では、リチウムイオン電池の製造はすべてクリーンルーム内で行われる。しかし、クリーンルームの建設には多額の費用がかかる。当時、BYDにはその資金的余裕がなかった。 そこで王は「クリーン箱」という装置を考え出した。これは、従業員が手袋をはめて両手を左右から箱のなかに入れることで作業ができるというものだ。もちろん、クリーン箱の内部はほこりひとつない。高価なクリーンルームを導入しなくても、わずかな設備投資で同じレベルの清潔さを実現できるようになった。 このクリーン箱の発明により、リチウムイオン電池を低コストで生産できるようになった。BYDは、この技術を武器にリチウムイオン電池市場に参入を果たした。