特別視という蔑視。ドラマ『虎に翼』から見る男らしさ──連載:松岡宗嗣の時事コラム
対等な個人として
虚勢をはる花岡を諭したり、寅子に何も言わずに別の女性と婚約したことに対し「それで本当に心から幸せになれるのか?お前がやっていることは、猪爪も奈津子さんも侮辱する行為なんじゃないのか?」と語る轟からは、相手を個人として尊重する姿勢が見える。 ただ、轟も当初は「男と女がわかりあえるはずがない。男が前に立ち国を築き、女は家庭を守るのだ」と、強固な性役割を語る一人だった。 しかし、自分と同じ弁護士を目指す女性たちそれぞれの厳しい境遇や連帯する姿を見て、「俺が男の美徳と思っていた強さ、優しさをあの人たちは持っている。俺が男らしさと思っていたものは、そもそも男とは無縁のものだったのかもしれんな」と、男らしさという概念自体を捉え直そうとする。 現在、おそらく多くの男性が、花岡のように女性と男性は平等であるべきだという建前には賛成するだろう。または、「多様性の時代だから」とマイノリティへの差別はダメだという前提には同意するだろう。しかし、実際にはわかったフリ、特別視という名の蔑視、自分よりは下でいる限り認めるといった認識など、対等に捉えていない人も未だに少なくない。 むしろ轟のように、当初はど直球の偏見を持っていたとしても、建前だけで終わることなく相手と誠実に向き合えるようになることもある。 花岡と轟の姿勢から得られる学びは、相手を自分と同じ人間として、対等な個人として捉えること。そして、女性やマイノリティであることで、どんな社会的な立場に置かれているかを知ること。この両方の視点で捉えることの重要性だ。 後者だけでは、建前のみになってしまったり、相手を「劣っている人」または「特別な人」と、いずれにしても対等には捉えず、特殊な人という枠に押し込めてしまうことがある。 一方で、前者だけを捉えるのも問題だ。例えば「今どきもう男とか女とか関係ないよね」と言う人は現在でもよく見かけるが、一見すると相手を一個人として捉えているように見えるが、ジェンダー平等がすでに実現されたかのような、実際には歴然と残る社会の不平等を無視してしまっていることが少なくない。 寅子という個人の人格や経験は、女性であることで受ける社会の制度や文化による不平等の影響から切り離すことはできない。 第一話で、寅子を明律大学女子部法科に誘う穂高重親(小林薫)は、女性たちの学びを力強く後押しする、寅子にとっても恩師となる重要人物だ。穂高は一貫して女性法曹の誕生を心待ちにし、記者会見での寅子の怒りの演説に「素晴らしかった」と拍手する。 そんな人物も、相手を個人として見ることができないこともある。法曹の道を諦めざるを得なかった女性たちの思いを背に、妊娠しながらも仕事を続け、一人で抱え込み倒れてしまう寅子に対し、穂高は仕事を一度やめるよう促す。その際に語った「結婚した以上、君の一番の務めは子を産み、良き母になることだろう」という言葉に寅子は落胆する。 「私は今、私の話をしているんです!」という寅子の悲痛の叫びをみて、相手を対等な個人として捉えること、相手の立場や属性による社会的な不均衡を直視することの両方の視点が不可欠だと考えさせられる。 裁判官の桂場等一郎(松山ケンイチ)は、女性初の弁護士を目指し明律大学女子部に進もうとする寅子に「時期尚早だ」と言う。その後、進学した寅子が高等試験に落ちたことに納得がいかない様子をみて、「同じ成績の男と女がいれば男を取る」「かなりの手応えなんて言っているうちは受かりはしない。誰をも凌牙する成績を残さなければな」と“現実”を突きつける。 法に向き合う寅子のことを、個人として認めているところもあるが、しかし女性が置かれている不公正にまで思いを馳せることはない。時期尚早だと翼を奪ってきたのは男性社会であり、男性を凌牙する特別な女性しか受け入れないというのも、男性の特権性を自覚できていない。