『シビル・ウォー』のテーマはアメリカの分断だと思っていたが......
<『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のアレックス・ガーランド監督は政治的な寓話よりも、エンタメ色を強調したかったようだ>
映画を映画館で観る。【森達也(作家、映画監督)】 などと書くと、「馬から落馬した」とか「頭痛が痛い」と同様の重言になるのだろうか。 【映像】映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の予告編を見る でもこう書くしかない。映画は映画館で観るものと、ずっと思っている。20代後半にはビデオの時代が始まっていたけれど、レンタルビデオ屋に足を運んだことはほとんどない。 なぜ映画館にこだわるのか。理由の1つは、やはり巨大なスクリーンだ。あれは家では無理。昔に比べればテレビのサイズはずいぶん大きくなったけれど、映画館のスクリーンとは比べるまでもない。 2つ目の理由は周囲に大勢の人がいるという環境設定。みな見知らぬ人だ。年齢層もさまざま。でも1つだけ共通項がある。この映画を観ることを今日のこの日に選択した人たちだ。皆がじっとスクリーンを見つめる。 『スケアクロウ』でマックスがバーでストリップショーよろしく何枚も重ね着している服を脱ぎだしたときは、後列の誰かがくすくす笑っていた。『パピヨン』のラストでパピヨンが真っ青な海にダイブしたときは、前列の誰かが吐息をついていた。そして『ロッキー』で最後にロッキーがリングの上からエイドリアンの名前を何度も叫んだときは、両隣の誰かが必死に嗚咽(おえつ)をこらえていた。 つまり、場。これも映画の重要な一部だ。ただ観るだけではない。五感の全てが感応する。 だから音が重要なことは当然だ。 ということで『シビル・ウォー アメリカ最後の日』。配給会社からは音の映画と言われたけれど、観ながら「確かに」と実感する。 音そのものが重要な要素ということではなく、音の存在と不在の緩急が劇的なのだ。確かに効果は絶大。でもあえて苦言を呈せば、音楽の使い方には何度か首をひねる。単なるBGMではなくあえてミスマッチを狙う意図は分かるが、少し空回りを感じた。 観る前には、大統領選をめぐってあらわになったアメリカの分断がテーマなのだと思っていた。つまり共和党と民主党の内戦。ならば政治的な寓意やメッセージを込められる。僕が監督ならそうする。でもアレックス・ガーランド監督はその選択をしなかった。よりエンタメ色を強調したいと考えたのだろうか。