繰り返されるクーデター「タイ式民主主義」の行方は /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
今回は国王との面会映像なく「憶測」呼ぶ
ところで今回のクーデターを主導した陸軍司令官は、前の時と違って国王への面会を求めず書簡での報告に止めています。その後、国王はプラユット令官は「国家平和秩序評議会」議長就任を認める勅令(王の命令)を出して一応の正統性を確保したものの過去のクーデターや騒乱で「切り札」になっていた国王とのいわばツーショットや映像がありません。あえて求めていないのか。別の理由があるのか。憶測が乱れ飛んでいます。 まず「タクシン派」「反タクシン派」ともに自身の正当性を国王へ認めてもらおうとしていた具体的な動きへの危惧があります。また陸軍司令官は忠実な王党派なので高齢の国王の判断力や健康状態を何らか知っていての決定かも知れません。 何より大きいのは今回ばかりは「王様がお認めになった」で一挙に沈静化するという過去のケースが通用しない恐れでしょう。国王がクーデターを明確に承認し、おそらくは大いに不満であろう「タクシン派」がしたがわず、大規模デモや軍政との衝突に発展したら、国王の権威が失墜します。「国王の軍隊」としては絶対に避けたい事態です。ただこの手法だと「王様がお認めになった」がないから公然と反発されるという危険性を裏腹に抱えています。「勅令がある」で収まるかどうか。
絶対的な存在を誇るタイの国王
言い換えるとそれほどタイにとって国王の存在は絶対でした。在位68年目は現役ではイギリスのエリザベス2世の62年目より長く世界最長。確認できる主な国と地域での最長はフランスの「太陽王」ルイ14世の74年とみられ、既に歴史的存在です。戦後の大半を国王として君臨し、何度も起きたクーデターや騒乱の幕引き役も務めてきました。57年クーデターで政権を握ったサリット首相は国王への絶対忠誠を誓って自己の独裁を正当化してもいました。後継のタノム首相も似た手法を取ったものの、民主化デモと出身母体の軍がぶつかり合うという失政を起こし1973年に亡命しました。最後は国王から「責任を取れ」と引導を渡されたという説もあります。 プミポン国王の「凄さ」は91年のクーデター直後にいかんなく発揮されました。スントーン最高司令官らがクーデターを決行して民政のチャチャイ政権を転覆させ、翌92年にスチンダ陸軍最高司令官を首相にしようとした際の騒乱です。やはり民主化を求める市民の大規模デモに発展し軍と衝突し、軍はデモ隊に発砲して44人が死亡します。国王は双方の代表格を招いて和解を促しました。ひざまずいた軍と政治家は謹んで承り騒乱は一気に沈静化、4か月後に総選挙が無事に行われて文民政府が誕生したのです。この場面は世界中のテレビで報じられました。 現国王が9代目のラタナコーシン朝(バンコク朝)そのものへの尊崇もありましょう。映画『王様と私』の「王様」のモデルでもあるラーマ4世は開国を決断した開明派でした。続くラーマ5世の42年はイギリスとフランスが東南アジアを次々に植民地化していくなかで堂々と渡り合って独立をまっとうした治世でもありました。さらに1920年創立の国際連盟加盟を実現させて独立国家であるのを世界に認めさせたラーマ6世、専制君主制から立憲革命への変更を受け入れたラーマ7世と特長ある王を輩出し続けました。