【東スポ競馬で振り返る昭和の競馬史】大混戦模様がJRA最大の「成長率」につながった?/昭和41年=1966年
東京スポーツ新聞第1号が発行されたのは昭和35年(西暦1960年)。この年の日本中央競馬会の年間売り上げ(売得金額)は約290億円だった。そこから順調に数字を伸ばし、昭和41年(66年)にはついに1000億円の大台を超えた。 実はこの年の3歳牡馬クラシックは主役不在の混戦模様。スターホースが注目を集める、ライバル対決…など派手に盛り上がるシチュエーションではなかったが、すでにここまでで中央競馬はエンターテインメントとしての地位を確立していた。現在の水準からいけばまだまだだが、多少選手層が地味でも一定の注目度を得られる素地を手にしていた。 実際、5月の東スポのダービー展望記事では「予断許さぬ」「ものたらぬ決め手」など消化不良の表現が頻出しており、レースも1番人気ショウグン(皐月賞2着)が9着に敗れ、2番人気ニホンピローエース(皐月賞1着)は20着。勝ったのは12番人気テイトオーで、2着は18番人気ソロモンという大波乱の決着となった。このように戦況が混沌とした中でも、競馬記事の掲載量が減ることはなく、それまであまり目にしなかったオークス特集が現れるなど、むしろ厚みを増していった。 前記の年間売り上げ1000億円超えは桁としても象徴的だが、実は前年からの伸び率も驚異的。統計を取り始めてからはもっとも大きい40%超えの数字を叩き出していた。
東スポ競馬編集部