大河で話題の『源氏物語』はなぜ1000年を生き延びたのか?―林 望『源氏物語の楽しみかた』
◆『源氏物語』は今言う意味でのベストセラーではなかった 『源氏物語』は、「日本の文学史上最大のベストセラーで」、というようなことを言う人がいる。また、『源氏物語』は、平安朝の貴族世界の「雅(みや)び」の文学だと、思い込んでいる人もきっと多いことであろう。 こうした、いわば通俗な源氏観は、いずれも正しいとは言えない。 まず、『源氏物語』は、決して今言う意味でのベストセラーなどではなかった。平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代、そして近現代と、どの時代で観察してみても、この長大で難解な物語を自由に読める人など、限りなくゼロに近かったのである。ただ、ごく限られた貴族社会の人たちや、すぐれた知識階級の人士が、細々と読んでいたに過ぎない。これが、読もうと思えば努力しだいで誰でも読解できるようになったのは、江戸時代前期、延宝元年に成立した北村季吟の『湖月抄』という周到な注釈読解書が出版されて以後のことであったが、それとて、大本六十冊にも及ぶ浩瀚(こうかん)な出版物で、おそらく今の貨幣価値にしたら、百万円くらいにはあたるほど高価なものだったろうから、それを買って自在に読める人は、やはりごく限られた数の知的・経済的エリートに限られたことであろう。 だから、その時代時代で、この物語を直接に享受できた人の数などは、まさに寥々たる少数に過ぎなかった。したがって、「多くの人に読まれた」という意味でのベストセラーというのには、まったく当らない。ただし、江戸時代には、『源氏小鏡』のようなダイジェスト本やら、『雛鶴源氏物語』などの翻案物やら、葵上・夕顔などの能、あるいは源氏を題材とする浮世絵のようなもの、そうしたもので、大衆は知っていたに過ぎない。 しかしながら、であるにも拘らず、『源氏物語』は常に文学の王道として千年に余る年月を堂々と生き延びてきたのである。 それは何故か。 ◇ 恋だけではない、矛盾に満ちた人間世界の苦悩をリアルに描く もし、この物語が、単に平安貴族の「雅び」な文学なのだとしたら、後世の人たちが読み伝えたはずはない。この物語は、雅びだの、優雅だの、そんな生易しい観念で片づくようなものではない。すこしでもこれを読み解いてみれば、そこにいかに生々しい、いかに切実な、いかに矛盾に満ちた人間世界の懊悩(おうのう)がリアルに描かれているかを知るであろう。 男と女がいる。その男女関係は、時代によってさまざまに転変するけれども、しかし、根本にある「人を愛する切実な気持ち」や、それゆえに誰もが懐抱(かいほう)せざるを得ない「愛するゆえの苦悩」やらということは、時代や身分などによって、がらっと変わるというものではない。そういう心の切実なる動きをば、「もののあはれ」と言うとすれば、このことは時代や身分を超越して不易なのだ。本居宣長が愛して已(や)まなかったのも、まさにこの一点である。 だから、ちょっとでもこの物語の奥山道に踏み入ってみれば、これが恐るべき説得力に満ちて、時代を超越した見事な文学的結実であることを知るであろう。すると、なんとしてもこれを次世代の人にも伝えたい、多くの人に読ませたい、と誰もが思うだろう。だからこそ『源氏物語』は、古今独往の偉大な、古典のなかの古典と成り得たのである。 とは申しながら、この物語は、千年も昔の女房の言葉で書かれている。それがゆえに、頗(すこぶ)る解りにくい文章であることは否めない。しかし、なんとしても多くの、とくに若い人に、「わが文学」として読んで欲しいと切望して、私は『謹訳 源氏物語』(後に文庫『改訂新修 謹訳 源氏物語』として再刊)を書いた。書いたけれども、やはりその中でも、ここはぜひ注意して、念入りに味わってほしい、というところも押さえておきたかったし、また、こう読めばこの物語の楽しさが味わえる、ということも紹介したいと思った。それが、私をして、この『謹訳 源氏物語』の別巻ともいうべき一冊(『源氏物語の楽しみかた』)を書かせたのである。ぜひ、ともにこの素晴らしい文学世界をしみじみと味わっていただければ幸いである。 【目次より】 第一章 親子の物語としての源氏物語 第二章 女としての当たり前 第三章 色好みの魂 第四章 源氏は食えぬ男 第五章 明石の入道はどんな人? 第六章 垣間見の視線 第七章 とかく夫婦というものは…… 第八章 この巧みな語り口を見よ 第九章 女親の視線の「うつくしさ」 第十章 奥深い名文の味わい 第十一章 源氏物語は「死」をいかに描いたか 第十二章 濡れ場の研究 第十三章 救済される紫上 [書き手]林望 [書籍情報]『源氏物語の楽しみかた』 著者:林 望 / 出版社:祥伝社 / 発売日:2020年12月1日 / ISBN:4396116187
祥伝社