弱者が弱者を襲う 松本清張『黒地の絵』に見る戦争のもうひとつの悲劇
社会派サスペンス作家の地位を築いた松本清張(まつもとせいちょう)は、実在の事件をモデルにして、社会問題や権力構造が引き金となって生み出される犯罪の存在を訴えました。『黒地の絵』はその代表的な作品のひとつで、敗戦後、占領下にあった日本の悲劇と同時に、弱者が弱者を襲う社会のひずみを鋭い洞察力で描きました。 悲劇の裏に隠されたもうひとつの問題をどのようにして浮彫りにしていったのでしょうか? ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
エポックメイキングな小説となった『黒地の絵』とは?
『黒地の絵』(1958年3~4月)は、松本清張にとってエポックメイキングな小説であった。それまでの清張は『或る「小倉日記」伝』などに見られるように、言わば個人的な情念に傾斜している小説を書いていたのだが、『黒地の絵』以降はそこから一歩踏み出して仕事の幅を拡げ、組織的な権力や社会の問題を正面から扱うことになったからである。清張自身も『半生の記』(1963年8月~65年1月)で、『黒地の絵』の題材となった事件に触れて、「この騒動のことが動機となって、私は占領時代、日本人が知らされていなかった面に興味を抱くようになった」と述べている。たしかにそれが、たとえば後の『日本の黒い霧』(1960年1月~712月)などの仕事に繋がっていくのである。 ――1950(昭和25)年7月11日夜、祇園祭を翌日に控えて北九州の小倉(こくら)に祗園太鼓の音が響いているとき、そこから一里ほど離れた米軍の「ジョウノ・キャンプ」に駐留していた黒人兵「総勢250人」が集団脱走し、キャンプ周辺の民家に入って略奪や暴行を働いた。炭坑事務員の前野留吉の家では6人の黒人兵が押し入って来て、焼酎を飲んだ後に留吉の妻の芳子を輪姦するということがあった。そのうちの一人が女性器の刺青(いれずみ)をしていたことを留吉は眼に留める。その後、号泣する芳子に留吉は、自分の意気地のなさを謝るしかなかった。黒人兵たちは「二日とたたないうちにジョウノ・キャンプから消えていた」。朝鮮戦争の最前線に送られたのである。―― ここまでが小説前半の梗概である。この脱走事件とその被害は実際にあったことなのだが、事件の具体的で精確な内容は今もって不明である。『福岡県警史 昭和前編』(1980年7月)でも、「黒人兵たちの集団脱走と暴行の正確な経緯を知ることはだれも困難である」と語られている。