「早い見切り」を投資で実践 商社マンのカリスマ・石田禮助(上)
旧三井物産の海外商社マンとして、78歳で第5代日本国有鉄道(国鉄)総裁に就任した、石田禮助(れいすけ)。その投資のセンスと厳しくも人情深い生き様に、あこがれを抱くビジネスパーソンはいまでも少なくなくありません。石田氏の投資家としての活躍と哲学そして言葉について、市場経済研究所の鍋島高明さんが、2回にわたって紹介します。
投機のカンは生まれつき
石田禮助の投機のカンは生まれつきのようである。学校出たての三井物産大連支店時代、大豆や穀物相場で巨利を占め初陣を飾った。大連支店の主要な商売は満州(中国東北部)の特産品である大豆、大豆油、豆粕、雑穀などの農産品の買い付け、輸出で、いわばスペキュレーション商売(独自の相場観などに基づいた積極的なキャピタルゲイン取得を目的とした売買による取引)そのものであった。 そこでは「青田買い」という一種の先物取引が盛んに行われていた。「青田買い」は収穫前に100%の代金を問屋に支払うもので作柄の出来、不出来によって巨利を占めることもあれば、大きな損を背負い込む覚悟もいる。石田はこのリスクの大きい取引に対して、初めは慎重に構えていたが、コツを覚えたあとは積極的に踏み込んでいった。 石田の少し後輩にあたるが、日清製油社長を務めた坂口幸雄も商社マンたちと大連五品取引所(大豆、大豆粕、大豆油、コーリャン、トウモロコシを上場)で「売った、買った」とやり合った仲である。坂口が日本経済新聞『私の履歴書』で大連市場のにぎわいを書いている。 「そのころ取引所に来ていたのは三井物産の前田鉄三、東食の吉田清庸、三菱商事の村岡知勝……私の忘れられない戦友である。それに多数の中国人との競争があり、すこぶるにぎやかであった」 大連支店9年間で培った相場勘と持ち前の博才が大きく開花するときが来る。 大正4年北米シアトル支店長(出張員首席)に抜擢されたときである。折から第1次世界大戦(欧州大戦)の最中で、大荒れの海運市場に目を付ける。わずか数年間でざっと、1,000万円、現在の価値にして300億円という莫大な利益をたたき出した。石田の生涯を描いた城山三郎著『粗にして野だが卑ではない―石田禮助の生涯』(文春文庫)にこう書かれている。 「石田は間もなく好景気が来ると読み、船のチャーターにのり出した。日本船舶だけでなく、ノルウェー船、スウェーデン船までチャーター傭船契約する。石田の読みは的中し、大戦景気は太平洋岸にもひろがった。船の多くが大西洋岸に移った後なので、運賃は暴騰し、三倍にも五倍にもなった。船関係で1,000万円にのぼる巨大な利益を上げた。三井物産の当時の資本金が2,000万円、その半分を一人で稼ぎ出した形である」