「早い見切り」を投資で実践 商社マンのカリスマ・石田禮助(上)
第1次大戦終戦を1年前に予測し、「早い見切り」を実践
石田禮助は後年、シアトル時代を回想して「わが生涯であんなうまい商売をしたことがない」と語っているが、大戦の終結を人より1年早く読み切って強気一辺倒の「買い方」に早々と見切りをつけていた。この時、多くの船成金は「この大戦景気はいつまでも続く」と錯覚に陥っていた。 たとえば勝田銀次郎、山本唯三郎、山下亀三郎、内田信也、太刀川又八郎、辰馬吉左衛門…名だたる船成金たちが強気(買い)方針を堅持していた中で、石田は「こんなボロ儲けはいつまでも続くはずがない」と、持ち船を転売したり、チャーター船を解約していて難を逃がれた。石田の終世の投資信条である「見切り」を実践した。多くの成金が元の歩に戻るのを尻目に悠然と構えていた。 大正船成金の1人、内田信也と石田は麻布中、東京高商(現一橋大)、三井物産と同じコースを歩んだ仲。 「第1次世界大戦の船景気を見事に乗り切って伝統的勝利を収める点まで、共通している。違うのは内田が早々に三井物産を見切って独立、プロの船師になる(内田汽船の創設)に対し、石田は三井物産にとどまり、サラリーマン船師として社業に貢献したことであろう。内田は世間を沸かし、石田は物産の上層部をうならせた」(拙著『賭けた儲けた生きた』) 相場師列伝に精通する藤野洵も『群伝七人の相場師』の中で石田の判断力、分析力、胆力、行動力に着目してこう記している。 「石田禮助の鋭いカンと天性の商才が、太平洋での勝負へとかりたてた。瞬間的な状況判断、情報収集の的確さと分析力に胆力が備わっているのだから申し分ない“相場師”の資性であろう。行動力も抜群であった」 当時、総合商社が取り扱っていた商品は穀物、非鉄金属、繊維、砂糖など相場商品が中心だったから、商社には相場師気取りの猛者がわんさといたが、“人の物産”には取り分け多かった。その中でも石田の右に出る者はいなかった。=敬称略<(下)に続く> 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>
石田禮助(いしだ・れいすけ 1886-1978 )の横顔 明治19年静岡県西伊豆出身、麻布中から明治40年東京高商(現一橋大)卒、三井物産に入社。大連支店を皮切りに約30年海外商社マンとして活動、昭和11年常務となって帰国。この間第一次世界大戦の終結を見抜き、人よりも早く方向転換、「三井物産に石田あり」と称された。同14年代表取締役、昭和38年、78歳で国鉄総裁に就任。「ヤングソルジャー」(若き戦士)と呼ばれた。