紫式部は藤原道長を嫌っていた? 道長のアプローチをあしらった「切ない理由」
「紫式部は道長の愛人であった」との説がある。この説の信憑性はあまりないが、道長が彼女に対し、口説くような和歌を贈ったことはある。紫式部にとって道長は雇い主なので、アプローチを軽くあしらったが、その裏には「道長への嫌悪感」があったようにも考えられる。どういうことか、見てみよう。 ■「紫式部が道長の愛人だった」という説 室町時代に編纂された『尊卑分脈』という書をご存じだろうか。主として藤原氏や源氏など、皇室とも大きく関わり合いのあった氏族などの系譜が連綿と記されているものである。そこに『源氏物語』の作者である紫式部も、藤原為時の娘として登場している。 興味深いのは、彼女が藤原宣孝の室(妻)と記されながらも、同時に御堂関白藤原道長妾と見なされている点である。この「妾」が側室なのか、単なるお手つきを意味するものなのかはわからないが、二人が男女関係にあったことを示していることは間違いないようだ。 ただし、この書の信ぴょう性には疑問を抱く識者は少なくない。今回は、二人の関係がどのようなものだったのかについて、少々深掘りしてみたい。 ■雇い主・道長が、紫式部に恋の和歌を贈った理由 二人の関係性を示すものとしてよく引き合いに出されるのが、『紫式部日記』に記された次の歌である。 「渡殿に寝たる夜 戸をたたく人ありときけど おそろしさに 音もせであかしたるつとめて」 舞台となったのは、中宮彰子がお産のために戻っていた実家の土御門邸。ある夜、紫式部が渡殿に設けられた局で寝ていた時のこと。ひどく戸を叩く人がいた。紫式部は恐ろしくなって、音も立てずにおとなしくしていた…という。 叩いたのは、館の主人・道長であった。それは、翌朝に道長から紫式部に贈った歌が、「よもすがら水鶏よりけになくなくぞ真木の戸口に叩きわびつる」(夜通し水鶏が鳴くように、激しく戸を叩いたのに、開けてくれなくて嘆いていたのですよ)というものであったことからも明らかである。 これに対して、紫式部が「ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし」(ただごとではないほど激しく戸を叩く貴方のことゆえ、戸を開けていたら、とんでもないことになって後悔することになっていたでしょう)と贈り返している。このやりとりから鑑みて、二人が男女の仲であったと勘ぐる人も多いようだ。 もう一つ、道長は「すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ」(浮気者と評判になっているようですが、そんなあなたを見た人は何もせずに見過ごしてしまうことなどあり得ないでしょう)という歌を贈っている。「ちょっとお付き合いしてよ」と口説いているような内容である。 これに対する紫式部の返歌が、「人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ」(私はまだ、どなたにもなびいたことなどございませんのよ。いったい誰が私を浮気者だと言いふらしているのでしょうか)で、ちょっぴり頰を膨らませるかのような怒り方であった。 これらの贈答歌は、道長が本気で紫式部を口説いたものではなく、単なる挨拶代わりの戯言とみなすべきだろう。紫式部にとって、道長はいわば雇い主。社長の悪ふざけに、中堅どころの女性社員が軽くあしらったという程度のものと考えるのが良さそうだ。 しかし、この軽いやりとりについて、紫式部には「思うところ」があったのではないかと考えられる。