秋吉敏子が95歳の今語る『孤軍』の音楽人生、ジャズと日本人としてのアイデンティティ
アメリカで”孤軍”奮闘していた70年代
―ご自身のビッグバンドを立ち上げて、最初に「孤軍」という楽曲を書かれた時はどういう想いがあったのでしょう? 秋吉:「孤軍」はフルートのために書いたんです。まず第一に、このレコーディングが決まった時にフルートの曲がなかったんですよ。それでフルートの曲が一曲ないといけないなと思ったんです。それと同時期に(1974年)、ジャングルで小野田(寛郎)さんが見つかったというニュースを見ました。彼が書いた「No Surrender: My Thirty-Year War」(わがルバング島の30年戦争)という本があって、私はそれを英語版を読みました。彼は戦争が終わっていたことがわからなかった。戦争が終わったから出ていらっしゃいよってことを彼に伝えようと上空からビラを落としたんです。でも、小野田さんは敵の策略だと思っていたそうです。私は向こうのテレビで見たんですけど、彼は少尉ですから降伏をするときに軍刀を渡すわけですね。それを見た時に私はすごく胸が痛くて、彼は”孤軍”で戦争が終わったのを知らなくて一人で戦ってて、私も”孤軍”でアメリカで頑張ってギャーギャーがんばってやってるみたいなところもあって(笑)。それも含めて「孤軍」っていう名前のフルートの曲を作ったんです。 それともう一つは、日本の音楽っていうのは音を笛で曲げるんです。ルー・タバキンが持っていたフルートは、フレンチモデルで楽器に穴があって音を曲げることができたので、うまい具合にいきました。 私はこれはもう、日本でけちょんけちょんにやられる(=批判される)なぁと思ってたんです。大体、日本のファンっていうのは、ああいうのを和洋折衷と言って嫌うと思っていたので、もう嫌われてもなんでもどうぞ、勝手にやってくださいって気持ちで書いたら売れちゃったんです(笑)。私のレコードって売れたことがないんですよ。そのとき初めて売れたんです。 ―『孤軍』はジャズでは異例の3万枚も売れたんですよね。 秋吉:そうですね。一度売れちゃうとレコード会社としてはそのあとが割に楽だったらしいです(笑)。井阪紘さん(※RCA/ビクターのディレクター)という方が当時クラシックの部門にいた頃に、日本でリリースしてくれたんです。ジャズはポピュラーの部門に入りますから、井阪さんがすごくいい条件で出してくださって。彼ももちろん売れると思ってなかったみたいです。っていうのも、私には売れたレコードがそれまで一度もなかったからみんなびっくりしたみたい(笑)。 ―先ほど秋吉さんは、アメリカで”孤軍”だったとお話しされてましたが、具体的にはどのような状況だったんですか? 秋吉:アメリカに渡ったのは、学校(バークリー音楽院)が奨学金を出して支援してくれたから。卒業するときに日本に帰ろうと思っていたんですけど、日本に持っていくだけのものを私はまだ身につけてないと感じたので、これはちょっとマズいなと思って、それで(バークリーのあるボストンから)ニューヨークに出たわけなんです。 ニューヨークに出てからは長いこと他の連中と同じように、やっと家賃を払うような生活を過ごしてました。私は運がいいなと思うんです。「来月の家賃どうしようかな……」と思っていると仕事がぽぽっと入ってきて。そういう感じで何年もね(笑) ―割とその日暮らしだったってことですか? 秋吉:よくサバイブしたって感じ。人からあなたは何が一番誇りですか?って聞かれたら、サバイブしたことって答えます(笑)。 ―当時はチャールス・ミンガスと演奏したり、良いミュージシャンと共演したり、ニューヨークでもそれなりに成功されていたのでは? 秋吉:私はチャールズ・ミンガスのバンドに入ってました。本当は他のバンドに入りたかったんだけどね。マネージャーのジョージ・ウェインが私を頭(リーダー)にしたものしか録らなかったから、私は共演したいと思った人たちと全然共演ができなかったんですね。 私がラッキーだったのは、最初からジョージ・ウェインがマネージャーやってくれていたので、私の出演料は高かったんです。そこはジョージに感謝してあげてもいいかなと思っているところ。ひとつ仕事が入ったら1カ月の生活は大丈夫っていう感じだったので。 あるとき、私のことを誰も気がついてくれないから、自分でジャズコンサートでもやったら、気づいてもらえて、少し仕事が増えるかなと思ったんです。それでコンサートの資金を貯めるために3カ月くらい、いろんな場所のホテルのカクテルバーでピアノを弾いてお金を貯めました。途中で、これだったらニュージャージーに住むところが買えるなって思ったんですけど、買いませんでした(笑)。それで(1967年に)タウンホールでコンサートをしたんです。すぐに新聞が良い評を書いてくれたり、遅れてダウンビートも良い評を書いてくれたんです。でも、別に仕事は増えなかったです(笑)。