い号作戦初戦のフロリダ沖海戦は 小なりと言えど日本側勝利であった!
ミッドウェー海戦以降、日本海軍は負け続けていたように思っている人も多い。だが実際は、どちらに転ぶかわからない戦いが、さまざまな海域で起こっていた。そこで小さな海戦まで、改めて振り返ってみることにしたい。 昭和17年(1942)6月5日から7日にかけ、日米両海軍が死闘を演じたミッドウェー海戦は、よく太平洋戦争におけるターニングポイントだったと言われる。この戦いを境にして日本は防戦一方となった、それが常識のように語られることがほとんどであった。 ところが事実は違い、日本は負け続けていた、というわけではなかった。この海戦からさらに3年2カ月余りも死闘が続いたことが、何よりの証拠だ。その間、日本海軍は連合軍に何度となく手痛い攻撃を浴びせている。また両軍が一歩も引かず、一進一退の激闘を繰り広げた場面も少なくない。今回から日本海軍が勝利、もしくは善戦したと思われる海戦をピックアップしていく。 第1回は昭和18年(1943)4月7日、ガダルカナル島の北方に浮かぶフロリダ諸島沖を舞台に繰り広げられた航空機による海戦にスポットを当ててみたい。これは日本海軍が挑んだ、大規模な航空戦「い号作戦」の中で起こった一つの戦いであるため、単独で語られることは少ない。 昭和18年になると、日本軍は多くの犠牲を払ったガダルカナル島を放棄。以来、ソロモン海域では連合軍艦艇の動きがますます活発になっていった。こうした現状を打開するため、ガダルカナル島やニューギニア島南東部を大規模空襲する「い号作戦」が立案された。 この作戦は山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官が指導し、連合艦隊司令部が独自に計画したものとされている。その最大の特徴は、基地航空戦力を補うために、連合艦隊の空母艦載機を陸上基地で運用することである。 投入された戦力は、再建途上にあった第三艦隊の空母4隻[瑞鶴(ずいかく)、瑞鳳(ずいほう)、飛鷹(ひよう)、隼鷹(じゅんよう)]の飛行隊から零戦約100機、爆撃機約80機という大編成であった。 それに加え基地航空隊の零戦約100機、爆撃機90機など、400機近い航空機が投入された。それらをラバウルだけでなくニュージョージア島の南沖合に浮かぶレンドバ島や、ブーゲンビル島の南端にあるブインの基地に配置して、敵が出てくるのを待った。 4月6日、敵の通信情報からガダルカナル島付近に約35隻の艦艇が集結していることが確認された。翌7日朝に行われた陸軍の一〇〇式司令部偵察機による偵察でも、ツラギ港に多数の艦艇を発見。その他、ルンガ岬沖やサボ島付近にも敵の艦船が存在することを認め、前日の情報に誤りがないと判断。そこで9時45分から11時にかけ、各飛行場から攻撃隊が発進する。攻撃隊ごとに空中で集まり、目的地に上空を目指した。 11時25分、制空隊がガダルカナル島上空に到達。敵の戦闘機群と激しい空中戦を演じていた。そんな中、13時頃に攻撃隊が同空域に達し、敵艦船に爆撃を開始する。 この戦いで日本側は輸送船6隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を撃沈、航空機41機を撃墜したと報告している。しかし連合軍側の記録によれば、戦車揚陸艦LST-449を護衛していた駆逐艦アーロン・ワードが撃沈。その他に油槽船と掃海艇各1隻が沈められ、複数の艦船が至近弾や同士撃ちによる損傷を受けている。航空機は9機が損失と記録された。 日本側は大戦果と認識したが、実際には大勢に影響が出るほどではなかった。それでも、日本側の損失が零戦12機、艦爆11機だったことを考えれば、攻撃は成功と言えるだろう。この後に実施された攻撃の戦果は、この日を上回ることはなかったのである。 ちなみにこの時、戦車揚陸艦LST-449には後のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが乗艦していた。 この日の戦闘は、後に「フロリダ沖海戦」と名付けられている。
野田 伊豆守