ガザ地区へなぜ侵攻? イスラエルとパレスチナ “乳と蜜の流れる土地”をめぐる“2つの悲劇”を理解する【#みんなのギモン】
散り散りになったユダヤ人たちは、ヨーロッパ各地で差別や迫害に遭い、19世紀ごろには「祖先の地に自分たちの国をつくろう」という運動を始めました。
さらに第二次世界大戦中、多くのユダヤ人がナチスに迫害されたので、国際的にも、パレスチナにユダヤ人国家を建設することに同情的な空気が醸成されました。 ユダヤ人の主張が尊重される一方で、この土地にはアラブ人も生活を営んでいました。この折り合いは、当時どのようにつけていたのでしょうか。
■ユダヤ人とアラブ人“共存”の道へ しかし翌年「イスラエル建国」
1947年、発足間もない国連で「パレスチナの地を、ユダヤ人とアラブ人それぞれが住める地域に分割しよう」という分割決議が採択され、いわば“共存”していく道筋が立てられました。 その当時の地図です。
ユダヤ人のエリアと、アラブ人のエリアはほぼ半々で、いまとは違う印象です。このときも聖地の集まるエルサレムは対立を避けるため「どちらにも帰属しない」ことにしました。 しかし、その翌年の1948年、ユダヤ人たちが「イスラエル」を建国し、再び溝が深まりました。
■4度の中東戦争で“パレスチナ難民” 「オスロ合意」でいまに至る暫定自治へ
このときに2つ目の悲劇が起きます。イスラエル建国により、今度は、長らくこの地に住んでいたアラブ人(パレスチナ人)が故郷を追われることになってしまいました。パレスチナ人はガザ地区やヨルダン川西岸、あるいは近隣諸国に逃れたわけです。 このイスラエルの建国と、それに反対するアラブ諸国などとの戦い、すなわち中東戦争が4回行われました。そのたびにパレスチナの人々が住むエリアが小さくなり、行き場のない多くの人が難民となりました。それが「パレスチナ難民」と呼ばれる人々です。 このような状況を受け、ちょうど30年前の1993年に「オスロ合意」と呼ばれる歴史的な和平合意が結ばれました。イスラエルとパレスチナがお互いに認め合い、「パレスチナ人の暫定自治をガザ地区とヨルダン川西岸で始める」というもので、いまに至る枠組みです。
■2007年から支配「ハマス」 国家・イスラエル自体も認めず
パレスチナ自治区は2つあり、ヨルダン川西岸とガザ地区です。人口約325万人のヨルダン川西岸を統治する「ファタハ」は「イスラエルとの共存」という姿勢で、住民もイスラエル側に買い出しに行くこともできます。 一方のガザ地区は、細長い形をしていて長辺は約50キロ。中央線の東京駅と八王子駅を結んだ距離より少し長いくらいですが、非常に狭いところに約222万人以上が住んでいて密集しています。 このガザ地区を2007年から支配しているのがイスラム組織「ハマス」です。ハマスは「パレスチナの地は自分たちのもので、パレスチナの独立国家をつくりたい」と考えています。そもそも「オスロ合意」も、イスラエルの存在自体も認めていません。 同じ言葉で“パレスチナ自治区”といっても、ヨルダン川西岸とガザ地区では、考え方がかなり違い、いまとなっては隔たりができています。 今回は、ハマスの戦闘員が長年、イスラエルに打撃を与えるための自爆テロなどを繰り返してきたため、欧米はハマスを「テロ組織」と認定しています。 子どもや若者が非常に多い一方、自治区の産業や経済力も乏しいため失業率がとても高い。さらにイスラエルとの境に高さ8メートルもの壁がそびえることもあり、ついた異名が「天井のない監獄」。多くの人が未来を描くことが難しい、そんな閉塞感がガザ地区にはまん延しています。 ◇ 長い間の憎しみと暴力の連鎖のただ中に、双方の対立があります。ただ、「ガザ地区の住民」イコール「ハマス」ではありません。今回の一連の空爆でも多くの子どもたちが家族や住まいを失ったり、大ケガをしたり、命を落としたりしていることを、私たちは決して忘れてはいけません。 (2023年10月16日午後4時20分ごろ放送 news every.「#みんなのギモン」より)
●あなたの身の回りの怒りやギモンをお寄せください。 お寄せいただいた情報をもとに日本テレビ報道局が調査・取材します。 #みんなのギモン https://www.ntv.co.jp/provideinformation/houdou.html