「足は遅い。ジャンプ力もないのになぜ?」”170センチ”の中学生・田臥勇太が練習会で高校生を圧倒。能代工「9冠無敗」の伝説はここから始まった
のちに日本人初のNBAプレーヤーとなる絶対的エース・田臥勇太を擁し、前人未踏となる3年連続3冠=「9冠」を達成した能代工業(現・能代科技)バスケットボール部。社会現象ともなったこの「能代9冠」と25年後の今に迫ったノンフィクション『9冠無敗 能代工バスケットボール部 熱狂と憂鬱と』刊行を記念し、伝説の序章ともいえる1995年に起きた“事件”を詳報する。 【画像】能代工業(現・能代科学技術高校)の体育館。男子バスケットボール部の練習風景
常勝軍団の練習会に現れたスーパー中学生
その領域にむやみに入り込むと痛い目に遭う。身体は削られ、精神だって衰弱していく。だから彼らは、心身ともに万全を期して挑むわけだが、それでも成功率は1割か2割程度というのだから厄介な試練である。 能代工バスケットボール部の「突破練習」では、オフェンスの選手全員が音を上げる。 ふたりのディフェンスを抜き去りフィニッシュまでもっていく――額面だけで受け取れば困難の色は薄いが、そのほとんどはシュートすらできずに終わる。守る3年生はマークした獲物に食らいついたら絶対に離れないほどしぶとく、オフェンスの選手から“ピラニア”と恐れられるスペシャリスト軍団だった。 1995年。能代工への進学を希望する中学3年生を集めて開催された練習会で、そのピラニア軍団をいともあっさりと出し抜いた選手がいた。フィニッシュ成功率は実に8割。 司令塔であるポイントガードの半田圭史や点取り屋のエース、高橋尚毅ですら成功は6割程度というなか、身長170センチそこそこの中学生は、高校3年生のレギュラーを翻弄するパフォーマンスを見せつけたのである。 田臥勇太のインパクトは、「日本一」と呼ばれる名門をも揺るがせた。 当時1年生ながら主力だった小嶋信哉やリザーブとして存在感を示していた畑山陽一は、「なんで抜けるんだ?……」と、閉口していたほどである。2年生となる翌年から、本格的にベンチ入り争いに参戦していく者たちからすればなおさらである。それほど、田臥が与えた脅威はすさまじかった。 「練習会で初めて田臥のプレーを見たときは、そりゃあ『モノが違う』と思いましたよ」 当然でしょ、といった口ぶりで端的に衝撃を伝えるのは、近藤洋介だ。 インターハイ、国体、ウインターカップと主要全国大会で優勝する「3冠」を達成した91年に中心選手だった、小納真樹、真良のツインズに大場清悦、96年に新キャプテンとなる田中学を輩出した琴丘中の出身。 中学時代は得点を求められるシューティングガードとして全国大会に出場した手練れにとって、1学年下でポイントガードの田臥は、ライバルとして警戒する後輩となった。 身長168センチと田臥よりも小柄な近藤は、監督の加藤三彦からポイントガードへのコンバートを勧められていた。だが、スリーポイントシュートをはじめとするシューティングとアシストにも自信を抱いていたため、前線までボールを運ぶシューティングガードが自分を活かせるポジションだと思っていた。 だがそれは、田臥も最も得意とするスタイルでもあった。同じ土俵に立った近藤は、改めて気づく。やっぱりモノが違う、と。 「すべての面で田臥のほうが上回っていたと思います。敗けるつもりはなかったですけど、一つひとつのプレーがとにかくすごかったです」