道長や公任の息子と恋の駆け引きをした賢子 恋も仕事も大成功した平安女子のサクセスストーリー
■明るく社交的で和歌にも秀でた紫式部の娘 紫式部(藤式部)と藤原宣孝の娘として誕生したのが、藤原賢子である。誕生がいつ頃かは諸説あるが、父の宣孝が長保3年(1001)に亡くなっていることなどを勘案し、長保元年(999)頃とされている。 母の紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは長保4年(1002)年頃で、その後寛弘3年(1007)から一条天皇の中宮であり藤原道長の長女・彰子に仕えるようになった。賢子の生年を仮に999年とするなら、この頃賢子は数えで9歳だった。 賢子もまた、母と同じく女房になる道を選ぶ。諸説あるが、長和6年(1017)頃に彰子に仕え始めたと考えられている。母とは異なり、明るく社交的で恋の駆け引きが上手な賢子には、名だたる貴公子たちが恋心を寄せたという。 代表格が、道長の次男・藤原頼宗と藤原公任の長男・定頼だろう。頼宗は道長と源明子の息子であり、正妻の源倫子の子である頼通や教通よりも昇進は遅かったが、それなりに出世はしていった。後一条天皇の時代には彰子と東宮・敦良親王に仕えている。ちなみに、正妻は藤原伊周の娘だった。 頼宗に宛てた和歌には「恋しさの 憂きにまぎるる 物ならば またふたたびと 君を見ましや」といったようなものがある。「あなたにお会いしたい」とストレートに伝える内容だ。 定頼は公任の愛息で、容姿端麗だっただけでなく、和歌や書、管弦にも秀でており、まさに父親譲りの雅やかな貴公子だった。一方でやや軽薄な面があったとされており、和泉式部の娘である小式部内侍の和歌を「母親が代作したんじゃないか」などと軽口を叩いたという逸話もある。恋多き男性で、歌人の相模などとも浮名を流している。 そんな定頼なので賢子から心が離れて冷たい時期もあったようで、これに対して賢子は菊の花を添えて「つらからん 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せん 白菊の花」という和歌を贈った。「あなたは私に冷たい態度をとりますが、それでもあなた以外の誰にこの白菊の花を見せるでしょうか(あなたしかいないですよ)」と、自分の辛さを優美な歌に包んで伝えるセンスは見事なものである。 さらに宇多源氏という高貴な血筋を引く名家に生まれた源朝任とも深い交流があった。朝任は道長の正妻・倫子の甥にあたる。 さて、一説には、賢子が最初に結婚したのは、藤原兼隆であるという。父は道長の兄である道兼だ。道長が権力闘争に勝った後、道隆の子である伊周や隆家らが道長に反抗的だったのに対し、兼隆は道長に近しい存在として従っていく。 『栄花物語』に「越後の弁が左衛門督の子を産んだ」という内容の記述があり、寛仁5年(1021)に兼隆が佐衛門督に任じられたことを根拠とする説で、『尊卑分脈』には賢子を妾とし、女子が1人誕生していると記されている。 最初の結婚がどのような結末を迎えたかは知られていないが、賢子は後に東宮権大進を務めた高階成章と結婚。息子・為家と娘1人をもうけている。夫となった成章は地方官を歴任したこともあって財産はかなり溜め込んでいたらしい。それなりに幸福な結婚生活であったと考えられている。 一方、仕事も順調にキャリアを重ねた賢子は、後朱雀天皇(彰子が産んだ敦良親王)と道長の娘・嬉子の間に生まれた親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母に抜擢された。天喜2年(1054)に後冷泉天皇が即位すると、賢子は従三位に昇叙され、夫の成章は大宰大弐に任命された。彼女が後世に「大弐三位」という名で伝わったのは、これに由来する。 恋愛でも仕事でも、当時の女性としては望みうる限りの幸せを手にしたといってもいい。しかしその始まりに、母・紫式部が残した『源氏物語』の大きすぎる功績や彰子の女房として勝ち取った信頼があったことも忘れてはならないポイントである。
歴史人編集部