「夫の戦死が誇らしい」手紙につづった母は、仏前で毎晩のように涙を流していた #戦争の記憶
上官を助けようと、身を乗り出した
こうして大隊本部が苦闘と苦悩を重ねている時、第2中隊も棚原集落で激しい戦闘を繰り広げていた。米軍の半装軌車(車輪とキャタピラを併せ持つトラック)を奪いトーチカにして、通信線を切り、補給路も絶って、獅子奮迅を続けている。 今村勝上等兵も、大山中隊長の近くで、次々と押し寄せてくる米兵を迎え撃つ。まさに死闘だ。倒しても、また倒しても、敵は新たな歩兵や戦車を前面に押し立て、攻め込んでくる。 その時、目の前で銃弾を受けて倒れた部下を助けようと、大山中隊長がタコツボを飛び出した。 「いかん!」 今村上等兵は叫んでいた。 その声に重なるように、中隊長は狙撃手の放った銃弾を浴びて、膝をつく。 「中隊長殿!」 思わずタコツボから身を乗り出して助けに行こうとする今村上等兵。 それを見た敵の狙撃兵が照準を合わせ、引き金を引いた……。 ***
今村上等兵の長男との出会い
私たちが遺族へ手紙を返還するきっかけをつくってくれたのが、今村勝さんの長男・信春さん(75歳)だ。世界自然遺産の知床半島に近い、北海道斜里町の遺族会に所属し、父が戦死した沖縄への慰霊の旅や、8月15日に東京で実施される全国戦没者追悼式にも繰り返し出席している。 伊東大隊長から預かった356通のうち、「母が父のことを記した手紙ならば、コピーでもいいので欲しい」と最初に懇願した遺族で、その申し出を受けたことが返還の活動につながっているのだ。 明るく快活な方で、北海道へ行くたび、大歓迎してくれる。私たちと活動を共にするボランティアメンバーの女子学生たちは何度も自宅へ泊めて頂き、とてもお世話になった。そんな信春さんだが、沖縄で戦没した父の話になると、ガラッと印象が変わる。
父は還らず、母は叔父と再婚した
勝さんが出征するとき、母・ツルヨさん(享年99)のお腹の中にいた信春さん。もちろん、父の顔は知らない。そして、終戦後、遺児となってからの暮らしは、赤貧洗うがごとく苦労の連続だったという。 斜里町で農業を営んでいた勝さんとツルヨさん。入植者が多い地域だったので、まず借金をして土地を購入し、小麦やジャガイモなどの栽培を始めた。当初は順調だったが1941年7月、勝さんに召集令状が届く。 前述したように、ツルヨさんは信春さんを妊娠中だった。臨月が近くなると農作業は続けられず、今村家の暮らしは戦地から届く勝さんの仕送りだけが頼りとなる。そして迎えた終戦。一家の大黒柱の復員を待ち望んでいた母子に届いたのは、勝さんの戦死公報だった。 終戦後の混乱期、母子家庭の暮らしは厳しく、父が購入した広大な土地を維持する労働力もない。しばらくすると、勝さんの弟・勇治さんが復員。生活苦にあえいでいたツルヨさんは、家を守るために夫の弟と再婚する。 しかし、鹿児島や横須賀など国内各地の軍の駐屯地を渡り歩いて体調を崩した勇治さんは、寝たり起きたりを繰り返す日々だった。働けないので収入はない。そのうえ、治療費も掛かったので、今村家の家計はさらなる火の車となっていく。 信春さんは、幼い頃から母や義父を手伝って農作業をしたが、暮らしは苦しくなるばかり。結局、土地は手放した。それでも借金の利息が膨らんで、当時の金で100万円近い負債があったという。 仕方なく高校進学を断念、農家の手伝いや砂糖を加工するビート(甜菜)工場で、朝の5時から深夜まで働き詰めだった。1年の内、休んだのは元日と数日だけだったという。 ただ、勉学への思いは断ち切れず、通信制の高校で学ぶことにする。が、借金返済のためにダブルワークを余儀なくされ、結局学業は諦めざるを得なかった。