松井秀喜がゴジラと呼ばれた日──。100回目の甲子園に命名者が語る真実
1992年。甲子園――。 当時スポーツ新聞の記者だった私が取材の現場を離れて10年以上の時が過ぎ、甲子園や地方予選の球場をハシゴ取材した記憶も薄れてきたが、“ゴジラ松井”の存在は特別だ。26年経った今も色褪せていない。 星稜高校の松井秀喜選手を紙面上で初めて「ゴジラ」と表現したのは1992年のセンバツ大会だった。 開幕前日に西宮スタジアムで行われた練習でのフリー打撃でポンポンとスタンドに放り込む姿を見て記事にした。この日は、まだ紙面上は「ゴジラ」という3文字は、大きな見出しにならなかったが、その翌日に、ゴジラが一気に“形態変化”した。大会の開幕試合となる対宮古戦で、いきなり特大アーチをスタンドに運んだのだ。甲子園球場の外野に張り巡らせられていたラッキーゾーンが撤去されて初めての大会だったが、松井選手のパワーの前には関係なかった。しかも、2打席連続。私は「ゴジラが火を噴いた!」と描写した。 2回戦の対堀越戦でもホームランを打ち、新聞には「ゴジラ」の見出しが更に大きくなる。その後、私が命名することになった「ゴジラ・松井」が、彼のニックネームとして定着していくことになる。 初めて松井選手を取材したのは、彼が高校1年の秋だった。地元・石川県で開催された国体。すでに名門・星稜で、1年生から4番を任され「北陸の怪物」と呼ばれていたのだが、どうもしっくりこない。 確かに試合中、打席で投手を睨みつけ、ガツンと強烈な打球を飛ばす姿は、怪物だが、試合後に1対1でインタビューすると、その受け答えに実に愛嬌があった。帽子をとって、いがぐり頭でニコニコ笑いながら丁寧に答える。口元からその大きな体格に似合わない小さな歯がびっしり並び、八重歯が下の歯の左右にある。そしてニキビ面に汗が流れる。その瞬間、私の頭の中で、伝説の怪獣の顔が重なった。 「ゴジラ君だ!」 185センチ、86キロの圧倒的な体格と、超高校級の飛距離。彼には、「ゴジラ」の要素はたくさんあり、とにかく強くて迫力があるヒーローのようなイメージがピッタリだと思ったのだが、当の本人は「ゴジラ」と呼ばれることを嫌がっていた。「なんで怪獣なの?」と、少々、怒っていたとも伝え聞いた。