松井秀喜がゴジラと呼ばれた日──。100回目の甲子園に命名者が語る真実
私が紙面にする前から「ゴジラ松井」と呼び出したことで、高校野球担当記者の間でも「ゴジラ松井」が彼への呼称となり、そのことに本人も気づいていたが、記事の中で「ゴジラ」と書くことは甲子園で大活躍するまでは遠慮していた。だが、私が「ゴジラ」の表現を解禁すると、それを知ってか、球場で顔を合わせてもそっぽを向き、「あの人のほうがよっぽどゴジラ」と言って周囲を笑わせていたとも聞く。 心優しき思春期の少年の心を少し傷つけていたのかもしれない。 その92年の夏はバルセロナで五輪が開催され、野球が公開競技から正式種目となり話題になっていた。私は五輪を担当することになり、様々な競技の五輪選考会や日本代表の取材と高校野球取材を掛け持ちしていた。 センバツで「ゴジラ」の活躍を追いながら「ゴジラ君も一緒にバルセロナへ行けないものか」と願っていた。10代の怪物が五輪の舞台に立てたら面白い。当時は、まだアマチュア選手にしか参加資格がなく、高校卒業後、進学よりもプロへ進むと思われていたゴジラにとって五輪出場のチャンスはこれが、最初で最後だったからだ。当時の星稜の山下監督に五輪出場の話を振ってみたら「松井にはぜひオリンピックに出てもらいたい」と乗り気で、日本代表に選ばれた場合、夏の大会の石川県大会に出られなくなるが、「もし選ばれたら、喜んで送り出します」とも話したほど。結局、野球競技における高校生の五輪派遣には、多くのルール変更が必要で実現しなかったが、実力と人気、期待度は、日本代表に匹敵していた。 「ゴジラ」の最後の夏の甲子園。社会問題にまで広がった8月16日の2回戦、対明徳義塾戦での“5打席連続敬遠事件”は、私はオーストラリアのシドニーで知った。神戸製鋼ラグビー部の取材のため真冬の南半球へ。神鋼ラグビーは、ちょうど日本選手権5連覇中でV6に向けてシドニーで合宿していた。芝のグラウンドに座り込んで神戸製鋼の練習試合を観ていたら、オーストラリアチームの関係者が近寄ってきた。 「日本では高校生の野球の試合でアクシデントがあって大騒ぎになっているそうだ。ニュースで取り上げられていたが、知ってるかい?」と話しかけられた。 当時は、ネットどころか携帯電話もまだ本格流通していない時代。あわてて、日本の会社に電話をして詳細を教えてもらった。想像もしなかった「ゴジラ」の最後の夏。甲子園球場で起こった異様な光景を実際に自分の目で見て、感じることができなかったのは残念だが、日本から遠く離れたオーストラリアでもニュースとして伝えられるほど、改めて「ゴジラ松井」のスケールの大きさを知らされた。