対話の精神
「対話の精神」を一言でいえば、「間(あいだ)に生成させる」ことではないでしょうか。これを比喩的に表現するならば、とても「東洋医学的」といえるのではないかと思います。 私は、医学の専門家ではないので、あくまでも素人考えですが、西洋医学と東洋医学の違いを次のように理解しています。 西洋医学は、症状の原因を明らかにして対応します。基本的には、個に分解していくことで、原因をつきとめる。人の身体を解剖し、器官に分け、臓器に分け、細胞に分け、たんぱく質に分け、アミノ酸に分け...と、どこまでも独立した「個」の存在を追っていきます。 一方で東洋医学では、「間」に原因があると考える。私は、腰が悪く、頻繁に鍼の恩恵にあずかっていますが、鍼の先生がいうには、鍼灸では「経絡の流れ」が阻害されると身体が不調をきたすと考える。経絡というのは、いってみれば、細胞と細胞のコミュニケーションです。いくら解剖しても、それが見えるわけではありません。 ちなみに、私は20年以上にわたって日常的に瞑想をしていますが、瞑想では「チャクラ」という、人体の中にあるエネルギースポットを活性化することに意識を向けます。チャクラは複数あり、たとえばその一つは、みぞおちの奥あたりです。細胞が集まっているその場にエネルギーが発生するという考えから来ていますが、やはり解剖してもチャクラは見えません。 西洋医学と東洋医学、どちらが正しいかという話ではありません。 我々は、西洋医学の恩恵をたくさん受けています。同時に、自分の体験から、東洋医学的な見地も間違いなく健康の増進にプラスの影響を与えていると感じます。
コミュニケーションがあることの大切さ
さて、西洋医学的にコミュニケーションを考えると、アイディアや視点は「個」に宿るものになります。「個」として独立した一人ひとりが、思考し、アイディアを持ち、それを交換し合うというイメージです。 その意味でも「ディベート」はとても西洋的です。それぞれが持ち込んだ考え方のどちらが正しいかを見極める。いわゆるディベート大会ほどはっきりと優劣をつけないまでも、ディベート的な会議というのはよくあります。個が有している視点がばらばらにそこに存在していて、その中で一番良いものを決める、というアプローチ。 一方で東洋医学的には「間に生成される」と考えますから、コミュニケーションの中で、そもそもどちらが正しいかという前提がありません。経絡にたとえれば流れが悪いとき、チャクラにたとえれば場のエネルギーが不活性のとき、間には何も生成されません。ただそれだけです。 大事なのは、コミュニケーションが流れていることです。お互いにリスペクトを払いながら、誰でも自由にものが言い合えて、そこでみんなで生み出していくことが大切だと考える。