ライオネス飛鳥、体型コンプレックスを抱えていた小学生時代「肥満児になってしまった」意外な理由と中学1年で訪れた大きな転機
80年代に全日本女子プロレスから誕生したクラッシュギャルズ。その活躍はリングのみならず、歌手デビューを始めドラマやバラエティ番組にも出演し、10代の少女たちを熱狂させた。その一翼を担っていたのが元プロレスラーのライオネス飛鳥さん。 Netflixシリーズ『極悪女王』では、ダンプ松本さんを中心に、ライオネス飛鳥さん、長与千種さんがクラッシュギャルズを結成し成長していく姿を描いている。いま再び脚光を浴びている女子プロレスだが、その渦中の人物であるライオネス飛鳥さんにとっての人生のCHANGEは?【第1回/全4回】 ■【画像】小学生時代は体型コンプレックスを抱えていたライオネス飛鳥、『極悪女王』で自身を演じた剛力彩芽との貴重なプライベートショット 80年代当時、クラッシュギャルズの道着や、Tシャツに書かれていた「風林火山」という文字。もともとは武田信玄の言葉として知られているが、筆者にとって「風林火山」とはクラッシュギャルズの言葉だと思っていたと伝えると、にこやかにこう答えてくれた。 「クラッシュギャルズに空手を教えてくれた山崎照朝先生のモットーが“風林火山”だった。だから私たちのモットーも風林火山なんです」 ──いつごろからプロレスラーを目指していましたか? 「中学一年生のときに、テレビでビューティ・ペアの試合を見て、ジャッキーさん(ジャッキー佐藤)に憧れて、絶対にジャッキーさんと試合したいって思った。子どものころは、すごく病弱で小児結核を患っていたために、何度も肺炎になりました。保育園にも行けなくて入退院も繰り返していて。 当時は、ステロイドしか治療法がなかったために、結核治療にステロイドを使っていたのですが、薬の副作用に食欲増進があって、すごく肥満児になってしまったんです。小学校四年生くらいまでは気にしていなかったけれど、成長期に入って体格が変わるころには“人に見られたくない”っていう意識が働くようになりましたね」
強いコンプレックスを感じていた小学生時代
現役時代の飛鳥さんのたくましい姿から想像ができないが、当時は太った外見にコンプレックスを抱いていた。 「水着姿になるのがイヤで、水泳の授業もサボっていました。小学生ながらに“早く死にたい……”とまで思い詰めていましたね。でも中学一年生のときに、ジャッキーさんの試合を見て“絶対に女子プロレスラーになる! ”って決意して。生まれてから初めて“なりたい”って思った職業が、プロレスラーだったんです」 ──具体的には、体重何キロくらいだったのですか? 「中学一年生のときには、身長が163cmで体重が80キロでした。運動をたくさん頑張って、1か月で20キロ落として60キロにしました。全日本女子プロレスは、中学校卒業見込みでオーディションを受けられたんです。 でもうちは母子家庭だったので、母親から“高校だけは受けてくれ”と言われて。近所の県立高校に進学して、高校一年生の終わりに、全女のオーディションを受けたら受かったので、中退しました」 全女といえば、80年代の全盛期は入団志望者が3000人を超える狭き門として有名だった。ライオネス飛鳥さんが受けた年も、同様だった。 「ビューティーペアの人気があったので、私が受けた年(1980年入団)も志望者が100人以上いました。かなりの人数が書類選考で落とされていて、そこから練習生として4人が残った形です」 ──かなりの難関ですが、合格すると思っていましたか? 「絶対受かると思っていました! 絶対に受かるって心に決めてオーディションを受けたので、松永会長からいっさい目を離さなかった。ずっと会長のことを見つめて、質疑応答もしていました」 正々堂々と、「受かると思っていた」と語るライオネス飛鳥さん。しかし、入団後は思いもよらない挫折が待っていた。 ライオネス飛鳥 1963年7月28日生まれ、埼玉県出身。日本の元女子プロレスラー。1980年に全日本女子プロレス入団。同年5月にデビュー後は、リングネームをライオネス飛鳥に改め、長与千種とのタッグチーム『クラッシュギャルズ』で大ブレイクを果たす。全盛期には全日本ジュニア王座、全日本シングル王座を獲得。タレント活動としてはテレビドラマへの出演のほか、「炎の聖書」で歌手デビュー。人気絶頂のなか、1989年夏に現役を引退。引退後は、女子プロレスの解説やカーレースにも出場。1994年にはプロレスラーとして現役復帰。再び、人気を博した。しかし、度重なる怪我や病気により、2005年にふたたび現役を引退した。現在は、銀座に会員制スナック「gangs」を経営している。 池守りぜね
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