なぜ「日本兵1万人」が消えたままなのか? 硫黄島「ジャングル化」「米軍による土地開発」の実態
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が8刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
遺骨行方不明の要因1「島の様変わり」
硫黄島の遺骨に関する最古の報告書は、1952年のものだ。全部で56ページあった。表紙に書かれた表題「硫黄島の遺骨調査に関する報告」以外はすべて手書きだった。開示されたのは白黒のコピーだったが、原本は相当朽ちているのが分かった。よくぞ今日まで保管してくれたと思った。僕はこの公文書を約70年間、リレーの如く繋いできた旧厚生省、現厚労省の歴代の職員に心から感謝した。 各年の報告書の文章の多くは、手書きだった。だからなのか、無機的なはずの書類の山からは、歴代の担当者の熱のようなものが伝わってきた。「あなたもよくぞ読んでくれた」。そんな喜びの声が、書類から伝わってくるような気がした。僕は心して一字一句、読み尽くさなければ、と思った。 1952年報告書を記したのは、硫黄島の元海軍司令和智恒蔵氏と共に上陸した引揚援護庁復員局の白井正辰氏と中島親孝氏だ。 戦後7年間、米軍の占領下に置かれ、日本本土からの視線が遮断され続けてきた硫黄島。上陸した3人が見たのは、どんな光景だったのか。それは、島内の状況が戦時中とは様変わりし、戦後わずか7年にして〈探査行動及び洞窟の発見を、既に著しく困難にしている〉という実情だった。 なぜ様変わりしてしまったのか。原因は二つ記されていた。 一つ目は「ジャングル化」だ。報告書には〈この島は、目下非常な勢いで植物が繁茂しつつある〉と記載。焦土化した島の自然な緑化に加え〈米軍が近年大規模に種子を撒布した〉というネムの木が島全域に生えたこともジャングル化の一因になったようだ。ジャングル化により〈日本軍当時の旧道が全く跡形ないのは勿論のこと、その後米軍が掘開した道路も、交通に利用していないものは、殆んど徒歩で辿ることさえ出来ない程度〉になってしまったという。 島を変容させた二つ目の理由は、米軍による土地開発だ。〈7年の歳月と、加えられた人工の力は、この島を戦禍の島から平和の島へと復元し、又変ぼうせられつつある〉との記載がある。 僕が驚いたのは、次の一文だ。 〈玉名山は頂上が飛行場工事のため現存しない〉 玉名山とは、死傷兵の多さから米軍が「肉ひき器」と呼んだ要塞群があった島中央部の激戦地だ。生還者の回想録などに多く登場する地名の一つだ。島全体を見渡せる摺鉢山と異なり、低い山だったが、兵士たちにとっては地理の目印になるランドマークだったのだろう。僕はかつて三浦孝治さんからこんな話を聞いていた。「いつかの遺骨収集に、生還者が参加していた。彼は硫黄島に着くなり、真っ先にこう言ったんです。『玉名山がない! 』って」。三浦さんは、そのときの生還者の驚きの表情を真似した。目を大きく開いて遠くを見つめ、口をあんぐりと開けた表情だった。 玉名山は戦後間もなくして忽然と消えた。山が一つ丸々なくなるぐらいだ。そのほかにも大規模な地形の変化があったのだろう。海外戦没者の遺骨収集は主に、生還者の記憶によって進められた。しかし、硫黄島においては、このような急速な島の変貌から、すでにこの時点で記憶に基づく捜索は極めて困難な状況に陥っていたのだ。
酒井 聡平(北海道新聞記者)