かつて沖縄に存在した英語放送「KSBK」 復帰前の沖縄で米軍の検閲をかいくぐり情報を届けた気骨あふれる放送人たち
特集です。かつて沖縄に存在した放送局「KSBK」をご存じでしょうか。 ことしで70周年を迎えたRBCがかつて運営していた英語放送局です。アメリカ統治下の時代、放送内容に“介入”してくるアメリカ軍に対し、当時のスタッフは様々な機転を利かせて県民の声を電波に乗せ続けました。 【写真を見る】かつて沖縄に存在した英語放送「KSBK」 復帰前の沖縄で米軍の検閲をかいくぐり情報を届けた気骨あふれる放送人たち RBCのOBであり沖縄初のアナウンサー、川平朝清さんに当時のエピソードを聞きました。 川平朝清さん。戦後の沖縄で、放送局の開局に尽力した兄・朝申さんに誘われてこの世界に足を踏み入れ、沖縄初のアナウンサーとして活躍しました。 川平朝清さん(97) 「その頃は放送局に(アナウンサーの)先輩はいない。指導者はいない。ですから、見様見真似ならぬ“聞きよう聞きまね”で、アナウンスを始めてますから」 「なまりがあろうが何があろうが、とにかく沖縄のトーンっていうかね、そういうものでスタートした琉球放送は、それこそローカル放送の先端を行くものだったんじゃないかと思いますよ」 戦後、沖縄で初めての本格的なラジオ放送は、RBCが開局する5年前、1949年に始まりました。当時はアメリカ軍による、いわば“国営放送”のようなもので、旧具志川村・栄野比の民家の一室で、その産声をあげました。琉球放送の前身となる「琉球の声」琉球放送局の誕生です。 それから5年後の1954年10月1日。当時、琉球大学の構内にあった施設や設備を引き継ぐ形で、琉球放送が県内初の民間放送局としてラジオ放送を開始します。まだまだラジオが珍しかった時代、こんなエピソードも。 川平朝清さん(97) 「アナウンスでインタビューする私が、録音車にいる技術の人に、『はい、回して下さい』と言って、マイクを渡したら、そのマイクを受け取って、ぐるぐる回すんですよ『いや、あんた、回しなさいって言ったじゃないかって』『いやそうじゃないんです』ってね。そういうこともありましたね」 当時はアメリカの統治下。放送にはアメリカ民政府による“検閲”がありました。しかし、様々な方法でその網をかいくぐったといいます。