【ウォール街回想記4】ジャンク・ボンドの帝王、M.ミルケン伝説誕生秘話
1960年代後半、ウォール街の米国証券会社に直接雇用される日本人は珍しかったといいます。1973年代に、著者が勤務していたバーナム・アンド・カンパニーが伝統的あるドレクセルと合併し、ドレクセル・バーナムと名前を変えます。 業績が落ち込んでいたドレクセルでしたが合併によって大きなチャンスを得た人物がいました。マイケル・ミンケン氏です。のちにジャンクボンドの帝王として名を馳せたミンケン氏の大きな成功はどのようにもたらされたのでしょうか?
米国債券市場の学術武装派トレーダー、マイケル・ミルケン氏とは?
マイケル・ミルケン氏は、ペンシルバニア大学ウォートンスクール大学院卒業後、ドレクセル・ファイストーンに債券トレーダーとして入社していました。当時の証券会社は、同じ会社でも所属業務により、社員間でも大きな隔たりがありました。資本市場の発行業務、すなわち投資銀行業務に従事する社員は、最も地位が高く、その大半は有名大学卒業生グループでした。それに反し株式や債券トレーディング業務のトレーダーの多くは高卒です。殊にアングロ・サクソン系で伝統を重んじるドレクセルではそのような差別が顕著だったのです。その中、ユダヤ系で大学院の学位を有するミルケン氏はほかの、主としてアイルランド系トレーダー達からは浮いた存在でした。彼の専攻は、米国の債券市場の歴史と統計で、学術知識を武装し、債券トレーダーの職を求めた異色の人物だったのです。 1973年にドレクセルはバーナムに吸収され、合併会社ドレクセル・バーナムとなり、引き受け業務では大手のメジャー・ブラケットとして、念願の地位を獲得したのです。ミルケン氏所属の債券部は合併の際、何ら付加価値のない部門でした。金融センターとして証券トレーディングはほぼニューヨーク市に集中し、フィラデルフィア所在ドレクセル債券部門の処遇が模索されたのです。バーナムの幹部はミルケン氏と面接し、彼は大きなチャンスを与えられました。バーナム創業者I.W.バーナム氏は同じユダヤ系で、しかもウォートンスクール大先輩の同窓です。当時ミルケン氏は弱冠20歳代の半ばでありながら、比類なき知識と説得力を持ち合わせていました。 ミルケン氏は米国債券市場の歴史上、優良企業が連邦倒産法第11章の適用を受け、会社更生に陥った場合、それら企業はいずれ保有資産を有効活用し、最終的に債務はほぼ全額が返済されるのを証明済みだと説明しました。 そして、彼は次のことを要請したのです。債券トレーディング資金として彼に300万ドル提供すれば、その資金で彼の研究成果を実践に移し、必ず結果を出すことを約束し、そして彼の報酬は元金から得られる収益の20%とする契約です。バーナム氏は彼の熱意に惹かれ、それに同意したのです。 ミルケン氏の年間個人報酬は1986年に5億5000万ドルだというニュースが流れました。30年後の今日においてはヘッジファンドなど、稼ぎ頭の年間報酬は10億ドルを上回るケースも見られますが、当時は耳を疑う途方もない金額でした。巷では、前代未聞の年間報酬に批判が集中しましたが、1973年に交わされた約束が守られた結果だったのです。その年ミルケン氏の年俸はドレクセル・バーナム全体の企業収益を上回ったのです。