「教える」「教えられる」近代の方法は限界か? 教育の「当たり前」をひっくり返す人類学の考え方
学校に通わない狩猟民の子どもはどう学ぶのか
――プナンの子どもたちは学校に行かなくなるとのことですが、どのように物事を学んでいくのでしょうか。 学校に行くのが当たり前の世界で育った私たちと、プナンやヘヤーの人々の違いを一言で言うと、農耕民と狩猟民の違いだということができるかもしれません。農耕民社会は所有、すなわち個人所有が基本ですが、狩猟民社会は共有、すなわちシェアリングエコノミーが基本で、誰かが獲物を獲ってきたら共同体の人たち全員に分け与えます。 みんなで生き残ろうとする考えのもとで暮らしているため、個人所有の概念が社会的には忌避されるのです。 この違いは知識や技術についても言えます。私たちにとっては知識も個人が所有するものであり、それを土台として、専門家集団がいる社会を築いています。例えば法律の知識のある個人が専門性を獲得していきますし、学校でも専門家である教師が知識を蓄え、それを子どもたちに伝授します。 一方、狩猟民社会では知識も技術も個人が習得するものではなく、みんなでシェアするもの。誰かが多くの知識や技術を持っているのではなく、みんながジェネラリストなのです。そのため、「教える・教えてもらう」という発想が生まれないのです。 子どもや若者は上の世代の狩猟についていき、さまざまな知識や技術を身につけていきます。親と狩猟キャンプで過ごす中で、狩猟のやり方や獲物の捌き方などが自然とストックされていく。彼らにとっては、いわば森が学校なのです。 私たちはふつう生きていくための知識や技術を若い世代に「伝授する」と捉えますが、「そういうことをしなくても共有されていく」というのがプナンやヘヤーの人々のやり方です。そのため、“師弟関係”が生まれないのです。
教える・教えられる以外のやり方もある
――では、「教える・教えられる」という概念や言葉がないプナンやヘヤーの人々はどのように学んでいくのでしょうか。 前出の原先生がヘヤーの子どもたちの前で折り紙の鶴を折ったとき、子どもたちは「(折り方を)教えて」とは言わずに、原先生が折る姿を見て、自分でやってみたそうです。もちろん、最初はうまくできないのですが、やりながら自分で修正を加えていく。 彼らはこれを「教えてもらった」ではなく「自分で覚えた」と言うのです。子どもたちは折り紙と対話しながら鶴を折る。それを繰り返すことで覚えていく。それはプナンも同じです。 今でこそ、学校で知識を学ぶ、専門知識のある人に知識を教えてもらうという考え方が世界中に浸透していますが、人類史で考えると比較的新しいものです。「人類の古いやり方は必ずしも『教える・教えてもらう』の二項ではなかった」ということを、人類学の観点からは言えるかもしれません。 ――学習指導要領「生きる力」では主体的・対話的な学びの重要性が示されています。子どもたちの主体性をどうすれば引き出せるのかと日々考えている教育関係者も多いと思います。 森の中で暮らしていくのであれば、因数分解や外国語といったパッケージ化された知識を教えてもらう必要はありません。他方、私たちが暮らす高度に資本主義が進んだ近代社会においては、専門家集団を作って責任ある大人が知識を教えるのが一番いいやり方だと思われてきました。 しかし、学校教育が硬直化している状況がある今、これでは立ち行かなくなるという問題意識が広がってきているように思います。私自身も大学教員として約25年間、教育に関わってきました。今は制度や規制が肥大化し、その中に閉じ込められた教育のどこから手をつけていいかわからないという状況なのではないでしょうか。