映画「ある一生」が描く平凡な男の“80年の人生” 世界的なベストセラーの映画化に至った背景
彼女の手がエッガーの腕に軽く触れた瞬間、彼は心臓に近いところに繊細な痛みを感じた。その繊細な痛みは、自分がそれまでの人生の中で受けたどんな痛みよりも深いものだった。愛というものを知った、その一瞬の記憶が、彼のその後の人生に大きな影響をもたらした。 それまで女性とは縁遠い人生を送っていたエッガーは、マリーへの接し方がわからなかった。 だが不器用ながらも、少しずつマリーとの距離を近づけていった。マリーを守りたい、彼女にふさわしい男になりたい。日雇い労働者だった彼はマリーとの結婚を決意、安定した仕事を請け負い、自分を変えようと努力する。
普段は寡黙で内省的なエッガーだが、マリーを家に招いた際に、彼女との将来を饒舌に語り始める。そんなエッガーのめずらしい姿にマリーは「口数が多いね」と優しい眼差しを向けるのだった。その後、夫婦となったふたり。孤独だったエッガーの魂は、愛によって解放されていくのだが――。 ■作者は『キオスク』『野原』などヒット連発 2014年に刊行された原作小説は何カ月にもわたってベストセラーランキングの上位を走り続け、およそ40の言語に翻訳された話題作。
もともとは俳優として活動していたローベルト・ゼーターラーだが、脚本家として執筆した『Die zweite Frau(原題)』(2008)でハンス・シュタインビッヒラー監督とタッグを組んでいたことがある。その後、ゼーターラーは小説家として『キオスク』『ある一生』『野原』などの世界的ベストセラーを連発する人気作家となった。 一方、『ヒランクル』『アンネの日記』などを手がけ、“スイス映画界の革新者”の異名を持つシュタインビッヒラー監督は、2014年に刊行された『ある一生』の原作本を読み、「この映画をつくらなければならない」と運命的なものを感じたという。
アルプスのキームガウで育ち、幼い頃はドイツで登山雑誌をつくっていた父親とともに山を旅していたという彼は、その理由を「小説で描かれている内容が、自分の山での生活や、キームガウの農家の息子だった実父の人生と結びついていたから」と語っている。 原作小説はおよそ150ページとそれほど長くはない中で、主人公の80年におよぶ人生を簡潔に、淡々と描き出しているのが特徴。そしてなんといっても、誰ともコミュニケーションをとらず、誰にも心情を打ち明けない主人公の視点から描かれているということもあり、シュタインビッヒラー監督はインタビューで「映画化は不可能だと思った。あまりにも美しすぎて、触れたくなくなるのだ」とその困難さを告白している。