英語だけを学ばせてもバイリンガルにはなれない 早期英語教育のあり方とは
ただ英語に触れているだけでは、使える英語は身に付かない
今から12年前(2004年)に『英語を子どもに教えるな』(中公新書ラクレ)という本を私が出したときはちょうどその時期に重なった。挑発的なタイトルのおかげ(せい?)で、子どものときから英語を学ばせるべきか、小学校英語は必要か、という論議を盛り上げる材料としてマスコミでも取り上げられ、否応なく「早期英語教育論争」に巻き込まれていった。 私は、アメリカで日本人駐在員の子どもを対象とする学習塾を運営していて、異言語・異文化環境において、母語である日本語と外国語である英語をともに伸ばしてゆくことが極めて大変で複雑な営みであることを目の当たりにしていた。だから、子どものときから英語を教えればなんとかなるという甘い幻想に強い違和感を抱いていた。 英語を使えるようになるためには、単に子ども時代から英語に触れたり、フレーズを教え込んだりするだけではどうにもならない。特に、英語力を発揮する前提となる「姿勢」が重要である。多様な背景を持つ人々と母語でない言語を介してつきあっていくには、恥ずかしい思いや大変な思いをすることは不可避。相手を理解しようと心がけつつ、自分の意見・立場を明確に説明しようとする努力も厭わない。きわめて面倒な営みが、外国語を実際場面で使っていくときに求められる。さらに、伝えたい中味がなければそもそもお話にならない。英語というツール以上に、時間をかけて育てなければならないことがたくさんある。にもかかわらず、子ども時代から英語に触れさせることばかりフォーカスされる。そのおかしさと危うさを、12年前の「早期英語教育論争」の渦中に身を置いていつも考えていたし、言い続けてきた。
堂々巡りの子どもの早期英語教育論から一歩先へ
しかし、結局、この手の議論は、お互いの立場をぶつけあうだけで終わってしまい、英語力を発揮する基盤となる要素をどう育むかという本質にたどりつくことはない。こうして、英語を教科化して学校で学び始める年齢を引き下げるという解決策ばかりがクローズアップされる。 いまやだれでも、いつでも、どこでも英語を学ぶことができるようになっている。ネットを活用すれば、生の英語にいくらでも触れることができるし、学習コンテンツもアプリも充実してきている。スカイプを用いて、ネイティブスピーカーを相手にマンツーマンで自分にふさわしいレベルで、求めている内容を学べる。学校の一斉授業で英語を学ぶことの意味を再定義しなければならないところにさしかかっている。にもかかわらず、小学校で英語が教科化され、開始学年も3・4年生へと早まる。学校現場は、新たな教科によって、ただでさえ多忙な職場にさらに負担が増え、混乱は増すだろう。 個人的な感慨として何よりもむなしいのは、10年前の状況から何も変わっていないことだ。もっと言えば明治開国以来、そして約70年前の敗戦以来、英語を使える日本人をつくるというまったく同じ議論をひたすら繰り返している。いったいいつまでこの堂々巡りを続けようというのか。 そこで、この連載では堂々巡りから脱するべく、「英語を使える」とはいったいどういうことを意味するのか見つめ直してみたい。そのうえで「英語を使える」ようになるためには、ただ英語を学べばよいわけではなく、その基盤となるマインドも含めて、早期英語教育だけにとらわれない学びの筋道を示していこうと思う。 (東京コミュニティスクール・探究プロデューサー 市川力)