「ダイナマイトに火をつけろ」と歌った「ボ・ガンボス」のどんと、活動期間6年2か月、カリスマバンドのヴォーカリストの37年の生き様
今でも根強いファンを持つバンド「ボ・ガンボス」のボーカル・どんとは2000年1月28日に亡くなった。日本のロック界の伝説とされるバンドを率いた彼は、いったいどんな人生を歩んでいたのかを振り返る。 【画像】どんとがボ・ガンボス史上でも最高の演奏をしたと自負するライブが収められたDVD
尾崎紀世彦の爆発力を「ああエエなあ」と思って歌をはじめた
どんと(久富隆司)は1962年8月5日、岐阜県大垣市で生まれた。小学生のどんとは、テレビの歌番組を見るのが一番好きで、1969年から70年にかけて始まった歌謡曲の黄金時代を体験したことで、歌を歌うことの喜びを知った。 尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が発売になったのは、1971年3月5日。ヒットしたのはその年の春から夏にかけてのことだった。年末には第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞をダブル受賞し、『NHK紅白歌合戦』に初出場も果たした。 ある時、尾崎紀世彦が突然スイ星の如く現れて(笑)。あの爆発力を「ああエエなあ」と思って。マイクの持ち方まねしたり。初めて買ったレコードも「また逢う日まで」だし。歌なんかもすぐ覚えて、人に歌って聴かすのが好きやったんや。 引用元・『ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂』(2015年) 次に歌の衝撃を受けたのは、ラジオを聴いていて知ることになったフォーク・ブームである。ラジオにマイクを向けてカセットテープレコーダーに録音し、吉田拓郎や泉谷しげる、井上陽水の世界に入っていった。 その時は、大好きだった歌謡曲とは正反対のところから、新しい音楽がやって来たという印象を持ったという。中でもレコードをすべて買い集めるほど心酔したのは、忌野清志郎がソングライティングをしていたRCサクセションだった。 どんとは高校から大学時代にかけて、忌野清志郎にすっかり染まっていた時期がある。中学生の時にはビートルズ狂にもなった。それはライブ映像を視聴体験したのがきっかけだ。 ビートルズに関してはレコードだけでなく、たくさんの関連図書や資料が豊富だったので、資料込みで聴く楽しみを覚えたという。 その頃フィルム・コンサートというものを知って、ビートルズの”シェイ・スタジアム”とか見てすごく感銘を受けて、世の中ではそんなのもうあたり前やったんやけど、それでビートルズのレコードを買ったんや。青い2枚組の『1967~70』っていう、あたり前のやつ。あれ買って聴いたらビックリしてさあ。入ってる曲全部いいやん(笑)。 引用元・『ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂』(2015年) どんとが音楽を受容していく力は生半可なものではなかった。すっかりロック少年になって1981年に京都大学へ進学すると、初のバンドを結成して音楽活動に励んでいく。
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