「ダイナマイトに火をつけろ」と歌った「ボ・ガンボス」のどんと、活動期間6年2か月、カリスマバンドのヴォーカリストの37年の生き様
バンド「ローザ・ルクセンブルグ」でメジャーデビューも1年で解散
やがて「ローザ・ルクセンブルグ」としてNHKのコンテスト『Young Music Festival』で全国優勝を果たした。その時に強く推してくれたのは審査員の矢野顕子と細野晴臣だった。 彼らがレコード・デビューしたのは1986年。しかし、バンドは1年後の1987年8月に解散した。 どんとはボ・ガンボスを結成(※1)すると、そこから堰を切ったようにライブを行うようになる。 そして1988年に入って、100本を超えるライブを行って評判になったボ・ガンボスは、音楽業界で大きな注目を集めていく。当時はバンドブームが巻き起こっていたので、当然メジャーデビューを目指した。 インディーズから出た自主制作EP『高木ブー伝説』が話題を呼んだ筋肉少女帯の大槻ケンヂは、著書『リンダリンダラバーソール』の中で、一緒にライブを観に行ったガールフレンドが、どんとのことを「なんか浮世離れした人」と言ったと記していたが、その評はとても的を射ていた。 プロデビューという出来事が、必ずしも、すべてのバンドマンにとって、成功や達成や、夢の幕開けを意味していたかといえば、そうとは言えなかったと思うのだ。 むしろ、メジャーのフィールドに立ち入らないほうが、よっぽど自分らしく生きることのできるミュージシャンたちもいたように思う。 引用元・『ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂』(2015年) メジャーのレコード会社と契約してCDを発表するということは、資本主義の競争社会に身を投じることを意味する。 「どんな手を使ったって、とにかく売れなきゃ駄目なんだよ。やりたい音楽をやるのは売れてからだ!」と、大槻ケンヂはスタッフからいつも言われていたという。音楽あるいは作品である以上に、CDとは何よりも商品なのである。 確かにそうなのだろうけれど、うんざりしたのもまた事実だ。 「いっそ、南の島へでも行って好きな歌だけ歌っていたい」 できるわけもないのにそんなことを考えることもあった。 引用元・『ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂』(2015年) (※1) ローザ・ルクセンブルグのメンバーとして活動していたヴォーカルのどんと、ベースの永井利充が、ドラムの岡地明(現・岡地曙裕/吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズ、ブレイクダウンなどで活躍)と1987年初頭からセッションを重ね、後にどんとの京都大学の先輩であるキーボード/ギターのKYON(現・Dr.kyOn)が加わり結成された。その名前は、どんとが敬愛するロックンロールの始祖であるボ・ディドリーと、KYONが心酔し、バンドが奏でるサウンドの核にもなったニューオーリンズ音楽のゴッタ煮感覚を象徴する、彼の地の郷土料理=ガンボを掛け合わせて生まれた。ガンボはニューオーリンズのソウルフード。冠詞に付けた「ボ」は、敬愛するブルースマン、ボ・ディドリーからいただいたものである。
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