「ダイナマイトに火をつけろ」と歌った「ボ・ガンボス」のどんと、活動期間6年2か月、カリスマバンドのヴォーカリストの37年の生き様
「ニューオーリンズから帰ってきた直後の野音は特別だった」
エピック・ソニーと契約したボ・ガンボスは、1989年2月、CDデビュー前にも関わらず、中野サンプラザ2DAYSを成功させて評判になった。 ニューオーリンズ・スタイルのブギやブルース、祝祭感に満ちた圧倒的なライブは、それまでにない新鮮なものだった。ボ・ガンボスはその後に渡米して、ニューオーリンズでレコーディングを敢行。マイアミでミックスダウンしてファースト・アルバムを完成させた。 ニューオーリンズ音楽の歴史が染み付いているスタジオでは、ボ・ディドリーを筆頭にネビル・ブラザーズのメンバーなど、伝説のミュージシャンたちとも共演することができた。また、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティヴァルにも出演し、アラン・トゥーサンとも共演を果たした。 担当ディレクターだった名村武は帰国後まもなく、「一緒に演奏したことから得たものは大きかった」と語っている。 「その影響が一番顕著に表れたのは、実はレコーディングそのものよりも、帰国直後にやった日比谷野音のワンマンだった。それ以前もボ・ガンボスのライブは面白かったんだけど、ニューオーリンズから帰ってきた直後の野音は特別だった。まず演奏のテンポ感からして違う。ニューオーリンズで、本場のグルーヴを受け継いできた表れだったんだろうと思うね」 引用元・『1989年のボ・ガンボスが残した音、残せなかった音』( TAP the POP) しかし、鳴り物入りのデビューだったわりに、7月1日に発売されたファースト・アルバム『BO & GUMBO』は、それほど売れたわけではなかった。 日本にボ・ディドリーを呼んで、ボ・ガンボスとの共演ツアーが行われたのは、ニューオーリンズ滞在中のレコーディング風景やライブ等を収録したビデオ『Walking To New Orleans』が発売になった9月22日からだ。 ところが9月23日、NHKホールでのライブ本番中に、どんとが客席へ転落するアクシデントに見舞われる。 メジャーデビューしたその年に27歳になったどんとは、当時の自分自身とその後について、客観的な口調でこう振り返っていた。 この絶頂の日にどんとはステージから落ちて左うでを骨折し、ギターが弾けなくなり、その影響で声も出なくなり、大阪厚生年金ホールの満員の客の前でまったく声が出なくなるという地獄を見て、それから2年位のあいだ声は治らず、低迷してしまったのである。 『ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂』(2015年)より やがて大きな期待とプレッシャーの中で、夢の実現に向けた集中力と爆発力で、常に自分を高め続けてきた緊張の反動が出始める。
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