〈桐島聡と逃走した男・独占インタビュー〉東アジア反日武装戦線「さそり」元メンバー・宇賀神寿一が語る「闘争の原点」と「さそり結成まで」
「同じ人間なのになぜ差別されなきゃいけないのか」
そんな私が、桐島さんの「死」という衝撃を前に、存在を知ってはいたし、近しいところにいたこともあったけれど、「さそり」そのものをよくわかっていない人間として、宇賀神さんが語る「これまで」を改めて見つめたいと、強く思った。 5年前に突然、パーキンソン病に罹患したという宇賀神さんは杖をつき、ゆったりとした足取りで現れた。少し曲がった背中に日常生活の大変さを思うも、路上で氷アイスを食べ、悪戯っぽく笑う飄々とした眼差しに、これが宇賀神さんらしさなのだろうなと思う。 今回は宇賀神さんの希望で、宇賀神さんのことも、逮捕前の黒川さんのこともよく知る、山谷で共に活動していた、旧「現場闘争委員会」の男性(道中さん・仮名)も同席された。 そもそも、宇賀神さんの「始まり」はどこだったのか。宇賀神さんは東京都生まれ、「炭屋」から「自動車部品加工業」に家業を転じ、家内工業で生計を立てる両親の働く姿を見て育った。中学から、私立の明治学院に進んだのは、「苦労なく、大学まで進めるように」という両親の希望からという。 「中学生の頃、『これが世界だ!』というテレビ番組を毎回見ていて、アメリカの黒人解放運動に強い影響を受けました。同じ人間なのになぜ差別され、迫害されなきゃいけないのかと、怒りを持ちました。ここからですね」(宇賀神さん・以下同) 1968年に進学した明治学院高校には、「ベ平連(注1)」や「ブント(注2)」などいろいろな組織が活動していた。今では考えられないことだが、当時の高校生や大学生は、自分たちの手で社会を変えなければいけないという強い意識の下、実際に行動していた。それが、当たり前の時代だった。宇賀神さんの心には中学生の頃から「差別はいけない」という、差別への怒りが宿っていた。 「実際に、社会を変えていくにはどうすればいいのか。具体的にどう運動を作っていけばいいのか、自分も考えました。闘うということに多くの人が共感していたし、私もそうだった。実力闘争について、自分も何かしなきゃいけないと。ただ、実際に政治党派のヘルメットを被ってみたけれど、難しい理論を弄ぶところばかりで、私には性に合わなかった」 (注1)「ベトナムに平和を!市民連合」の略、ベトナム戦争反対を訴える市民団体。1965年4月、小田実、鶴見俊輔などにより結成。 (注2)1997年に生まれた、新左翼系の市民団体(~2008年)。前身は「戦旗・共産主義者同盟」
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