武南・内野慎一郎監督#1「伝統校を指揮する責任感や重圧」
埼玉の武南高校サッカー部は、1973年(昭和48年)に着任した大山照人監督の指導が実り、全国区の強豪へと栄達。全国高校選手権には市立浦和と並んで県勢最多となる14度出場し、初めて48校が顔をそろえた第60回記念大会では初優勝を遂げた。インターハイ出場20度も埼玉では最多を誇る名門だ。 【フォトギャラリー】武南・内野慎一郎監督 大山監督の後任として2018年4月、エースFWだった教え子の内野慎一郎監督が就任。7年目を迎えた現在までに新人大会をはじめ、関東高校大会とインターハイの両予選で計5つのタイトルを獲得している。第85回大会以来、17年も遠ざかっている全国高校選手権出場を目指す内野監督にお話を伺った。 ――内野さんは卒業生ということもあり、これだけの伝統校を指揮する責任感や重圧は、相当なものではないでしょうか? 武南のサッカー部は、偉大なOBの方々が実績を残して栄光の歴史を築き上げてきました。さらに多くの卒業生が指導者としても活躍する中、自分が武南の指揮を執るに当たり、いろいろと考えさせられることはありましたね。「内野に代わってから弱くなった」と言われては絶対に駄目だと思っていました。そうならないようにということを常に言い聞かせながら指導に当たり、この信念だけはずっと貫いています。 ――監督に指名された時、迷いはありませんでしたか? 長く大山先生の近くにいさせてもらい、たくさんのことを勉強できたので、迷いというのは少しもありませんでした。周りの目やプレッシャーは多少なりとも感じましたが、大山先生から指導のイロハを教えていただいたことで、指導の現場に携わる上ではむしろやりやすい側面もありました。先生から吸収したノウハウを知っていたことは本当に大きかったと思います。 大山先生がサッカー部のアドバイザーという肩書の頃、「これはいいんじゃないか、ここはこうしたらどうだろう」と指導者の基礎になることを頻繁にアドバイスしてくれたんです。自分の思い描くスタイルを選手にしっかり伝えつつ、つなぎや運ぶドリブルといった武南の伝統的な特長は継承していこうと思いました。 ――日体大を卒業してすぐ武南に赴任されたのですか? そうです。1年目は教員ではなくコーチ専任として、2年目から非常勤講師を2年間、さらに常勤講師を3年間務めた後、現在の保健体育の専任教諭になりました。 ――大学生の頃から体育教師を目指していたのですか? 小学生の頃から体育の教員になりたいという夢はありました。実は大学4年生の時、Jリーグ横浜フリューゲルスの練習参加に誘われたことがあるんです。その年、日体大が13年ぶりに総理大臣杯全日本大学トーナメントに出場し、横浜フリューゲルスとトレーニングマッチをした時も、練習に行ってみようかなって思いました。でもプロは厳しい世界ですから、すぐクビになる恐れもあると感じたし、それより教員になりたい思いのほうが強かったので見送りました。後になって1回くらいプロサッカーを経験しても良かったのかな、なんて思うことがなくもなかったですね。 ――赴任した当時の指導陣は少なかったですよね? はい、大山先生と新田智幸GKコーチと私の3人だけです。大山先生がトップチームを見て、私が150~160人くらいいたBチームをひとりで見ていました。 ――指導者になりたての頃、どんなところに教えることの難しさを感じましたか? まずサッカーに対する持論や理論、感覚的なもの、自分が表現したいことを練習で落とし込み、試合で体現させることがものすごく大変で、最初の頃は随分と考え込んだものです。いろんなビデオを買ってはとことん研究しましたし、当時大宮アルディージャが練習していた志木市に自宅があったので、こっそり練習を見学して勉強したこともあります。 ――指導者としてやっていける手応えをつかみ、それが自信に変わったのは、いつ頃だったのですか? コーチというのはすごく難しい役回りで、自分の理想ばかり追い掛けているとチームとして負の連鎖に陥る危険性があります。監督が選手に指示していることをどう練習に生かし、落とし込んでいけばいいのか。チームにとって何がベストなのかを常に考えていました。そうやりながらコーチとして経験を積ませてもらい、2016年にヘッドコーチを任されて埼玉最上位のS1(1部)リーグを戦いました。大山先生からは、いろんなことを経験しなさいと提案され、翌年は同じくOBの津島公人がヘッドコーチになり、私はコーチとしてS2リーグを担当しました。 この時は1年生を見ていて、関東ルーキーリーグで市立船橋や流通経済大柏(ともに千葉)、帝京(東京)といった関東のトップチームの若い指導者とも真剣勝負できたのは、とても貴重な経験になりました。1年生の優秀な選手、後にチームの中心になっていく選手がバチバチ戦う大会は、いい勉強になりましたね。 指導者としてやれそうだと感じ始めたのは、こういう実践を経て監督に就いた18年頃からです。「ここを目指していきたい」「こんなことをやりたい」といったスローガンが明確になりました。 ――指導哲学のようなものが身に付いてきたのですね。 そうです。コーチの頃は「こんな手法もある」って思いながらも、なかなか口に出せませんでした。コーチは監督の補佐ですから、自分が自分がという言動は封印しました。 ――では、チームをつくる上でのこだわりや哲学は何でしょう? 自分は今までパスをメインとし、とても大切にしてきたので、必然的に行き当たりばったりで蹴り上げる戦法は取りません。ただパスワークだけでは相手にとって脅威にはなりませんよね。敵の陣形を崩すため、相手と駆け引きするため、相手を疲弊させるためにはドリブルが不可欠になってきます。新しいものを取り入れた上で、判断力というものをとても重要な基準としてやっています。それが今の私のサッカーです。 ――ロールモデルにしたチームや監督はいますか? 勝利に徹するチームはたくさんあります。先を急ぐとか、点を取りたいというのはもちろんありますが、中央で攻撃をつくっている時にボールロストしたら、失点に直結する恐れがありますよね。私はそれを回避してうまくやればいいのでは、と考えるタイプです。うまくなれるような雰囲気をチームの中につくっていけばいいと思いますね。「お前ら駄目だ!」みたいなことはやりたくない。ああしよう、こうしようって模索しながらのチームづくりを目指しているんです。 (文・写真=河野正)