また、ひとつの光が消えた…塩野瑛久の美しくも繊細な芝居の魅力とは? 大河ドラマ『光る君へ』第40話考察レビュー
かつての自分と同じ無念を味わわせている…。
円融天皇(坂東巳之助)に毒を盛り、花山天皇(本郷奏多)を唆して強引に譲位にこぎつけた父・兼家(段田安則)とは違い、道長は直接的に何かをしたわけではない。 だが、今の道長にはこの人には逆らってはいけないと思わせる圧倒的なオーラ、ある種の光とも言えるだろう。その光で自然と周りを従わせ、行成の優しさも、彰子の強さも陰ってしまった。 道長が去ったあと、「なにゆえ女は、政に関われぬのか」と力なくまひろ(吉高由里子)に溢す彰子。それは直秀(毎熊克哉)の無惨な死を目の当たりにしてから、まひろの心の中にもずっとあった疑問だ。 自分は女であるがゆえに政には関われない。だからこそ、より良い世の中にしたいという思いを道長に託したはずだった。の道長が権力を握った今、かつての自分と同じ無念を彰子に味わわせている。 だけど、まひろは道長にがっかりするというよりは彼を変えてしまったことに対して責任を感じているのではないか。だって道長はもともと権力欲などなく、まひろに思いを託されなければ、己の地位を無理に高めることもせずただ家族を大切にする父親になっていたであろうから。 だからこそ、「なにゆえ女は、政に関われぬのか」という彰子の言葉に共感しつつも、ただ寄り添うことしかできなかったのだと思う。
最期まで愛情深かった一条天皇
そして譲位から間もなく、一条天皇は崩御する。最後の瞬間までそばで寄り添った彰子に、「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき(露の身のような私が、風の宿に君を置いて、塵の世を出る事が悲しい)」と辞世の歌を詠んで聞かせた一条天皇。 普通に考えれば、彰子に向けた歌だが、書物によっては微妙に文言が異なり、君=定子(高畑充希)とする解釈も存在する。意識が薄れゆく中、一条天皇が誰のことを思い浮かべていたのかはわからない。しかし、定子のことも彰子のことも愛していたのは間違いのない事実だ。 円融天皇と詮子(吉田羊)との間に生まれた一条天皇。権力を求める公卿たちに振り回されない強い帝になってほしいという思いから詮子は厳しく息子を育てたため、一条天皇は幼い頃からどこか達観していた。そんな彼の寂しさを受け止め、ひとりの人間として接してくれたのが定子であり、情の深い一条天皇は彼女を生涯愛し続けた。 だからこそ当初は彰子にそっけない態度をとっていたが、その孤独も見て見ぬふりはせず、定子を愛したまま彼女の思いにも真摯に向き合った一条天皇。寒い日でも暖かいものを羽織らず、火も使わない理由について「苦しい思いをしている民の心に、少しでも近づくためだ。民の心を鏡とせねば、上にはたてぬ」と彰子に語っていたが、彼は2人の妻を思い、子を思い、民を思う、とことん愛に満ちた人だ。 なおかつ、出家に伴って剃髪してより一層際立つ、ため息が出るほどの見目麗しさ。普通なら人間離れした存在になってしまいそうなところ、そうならなかったのは塩野瑛久の演技に依るところが大きい。 塩野はこれまでも、『来世ではちゃんとします』(2020、テレ東系)でハイスペックだが実はSM好きで縛られた女性の姿に興奮するサラリーマンや、『かしましめし』(2023,テレ東系)で普段は明るく振る舞っているが恋人の浮気を知りながら追求できずにいるゲイの男性など、内に秘めた人間の欲望や弱さを繊細に表現してきた。