藤川球児を変えた高1の秋、恩師と取り組んだ朝の30分が成長の糧に
プロ野球・阪神タイガースの藤川球児・新監督(44)が誕生しました。現役時代は「火の玉」と例えられた快速球でならし、引退後は理知的な解説でファンをうならせました。その野球観はどうやって磨かれたのか。ゆかりの人たちの言葉から「藤川監督」に迫ります。 【写真】藤川球児はあの名将と野球観を培った 元番記者が見た一瞬の「会話」 高知商高の元監督、正木陽さん(63=日本高校野球連盟の技術・振興委員長)は、28年前の春の記憶が鮮明に残っている。 入学してまもなく、約30人の新入部員が、一斉にキャッチボールを始めた時だ。ただ1人、柔らかく腕を回し、スピンの利いたきれいな縦回転の球を投げる選手がいた。 身長は170センチちょっと。ひょろっとした体形で、球速は130キロにも届かなかった。 それでも、その手足の長さと関節の柔らかさに一目ぼれした。「これはおもしろい投手になるかもしれん。けがだけはさせちゃいかん」。それが、15歳の藤川少年との出会いだった。1学年上の兄・順一さんを追って入部してきたのだった。 ただ、その身体能力よりも驚いたのが野球への取り組みだった。 「私からはほとんどフォームの指導をする必要がなかったんです」。ブルペンで、他の選手に手取り足取り指導していると、その隣で藤川はぶつぶつと独り言をつぶやきながら、腕の位置を確認したり、足の上げ方を工夫したりしていたという。 練習試合などで、ひじが下がっていることを指摘すると、次の日には「これでいいですか?」と、すぐに修正してきた。「自分で理論的に考えて、いろいろと研究していた。そのぶん、こだわりも強かった」と振り返る。 自分の課題に向き合い、黙々と練習するタイプ。勉強は得意ではなかったが、野球となると、変化球の握り方など、習得するまでとことん追求した。 「野球小僧という感じでもなく、マイペースにやっていた印象」。趣味は魚釣り。部活が休みの日には、よく近くの川へ行き、アユやヤマメを釣っていた。 打撃も非凡だった。1年秋には外野手として中心選手になった。ただ、この時、「球児にとっての転換期」が訪れたという。 1996年、1年秋の高知県大会準決勝、相手はライバルの明徳義塾だった。接戦の展開で、左翼手として出場していた藤川のもとにふらふらと飛球が上がったが、捕球できなかった。このミスが失点につながって敗れ、翌春の選抜の道が断たれた。 「普段の生活からちょっと浮ついていたところがあったのでは」。そう感じた正木さんは、翌日、藤川を寮の部屋に呼んだ。 そして、こう言った。「座禅を組んでみないか」 学校から3キロほど離れたところに寺がある。精神面を鍛えさせようという狙いだった。 特訓が始まった。午前6時。正木さんと藤川、志願した数人の上級生が寮から走って寺に向かった。30分間、目を閉じ、心を整える。学校に戻ったら朝練をして、授業へ。こんな生活が2日に1回のペースで約3カ月間、続いた。
朝日新聞社