かつて「白い街」を築いた先駆者・名古屋はなぜ行き詰ったのか? 土地区画整理事業の現在
「土地区画整理」って何をすることか分かりますか。若い世代で当事者となって経験した人はあまりいないはずなので、イメージしづらいかもしれません。戦前から戦後にかけて、日本の整然とした街並みを形作ってきた基本的な手法のことです。しかし、その「先進地」として知られる名古屋では今、事業主体である区画整理組合が多額の資金不足で破綻しかけるなど、そのほころびが表れています。土地区画整理の功罪とはどんなものなのでしょうか。 海老名に住商が物流施設 圏央道IC近く、20年2月完成
市役所から発行された雑誌
名古屋が土地区画整理の「先進地」であることを裏付ける史料があります。その名も『区画整理』という名の雑誌です。 昭和10(1935)年に創刊されたこの雑誌の発行元は「土地区画整理研究会」。当時、名古屋市役所内にあった「区画整理協会」の職員を中心につくられた組織です。 雑誌には名古屋だけでなく、東京や大阪、東北から九州まで全国各地の土地区画整理事業の状況が報告され、その課題が議論されていました。毎号100ページ近くの冊子が月に一度、全国の関係者の元に届けられ(創刊号の価格は「1部25銭、送料4銭」)、9年間で105号を発行。その影響の大きさは現在、愛知県図書館が所蔵する「復刻版」に寄せられた都市計画学者、石田頼房氏の巻頭言からも見て取れます。 「土地区画整理研究会が名古屋を中心として組織されたことから、そこには名古屋を中心とした多くの実践が紹介されている。戦前の中京圏では、研究会の活躍もあって注目に値する多くの実践が行われていた。しかも、それらの内容には今日につながるものも少なくない。(中略)その広がりは日本全土はもちろん、当時の日本植民地にまで及び、『区画整理』誌の内容も、中京圏に限られず日本全土・海外植民地にまで及んでいる」。
「都市計画に王道なし、ただ区画整理あるのみ」
土地区画整理の考え方は、明治32(1899)年の「耕地整理法」にさかのぼります。そこからさまざまな手法と法制度が確立されていきました。 街並みを近代的に「整理」するため、住民それぞれが持ついびつな土地の一部を道路や公園用地として提供、土地の利用価値を上げ、まとまった土地を売却して事業費に当てるなどという仕組みです。各自が土地を提供する割合を「減歩率」、整備される新しい宅地を「換地」、売却する土地を「保留地」などと言います。事業の実施主体は、住民でつくる「組合」か自治体が大半ですが、個人や公団、公社などでも可能です。 名古屋では市街地化が早くから進んでいたため、こうした事業が率先して行われました。 明治38(1905)年に最初の耕地整理組合が名古屋市西部の中川区で発足。大正8(1919)年に都市計画法で土地区画整理事業が法制化されると、その6年後には初の土地区画整理組合が名古屋市東部の八事地区に生まれ、新旧の法制度下で組合数は10、20と増えていきました。 特に1920年、内務省都市計画技師として名古屋に赴任した石川栄耀が「都市計画に王道なし、ただ区画整理あるのみ」として事業を強力に推し進めたことが知られています。雑誌『区画整理』は石川が東京に戻った2年後に創刊。当時で33の耕地整理組合、59の土地区画整理組合が設立され、その動きを雑誌づくりにかかわったような行政マンが熱心に後押ししていたわけです。 戦後の昭和30(1955)年に土地区画整理法が施行されると、組合数は5年で新たに60、さらに5年で120と倍増。その勢いは「区画整理組合設立の波は燎原の火の如く燃え広がっていった」(『区画整理の街なごや』名古屋市土地区画整理組合連合会発行、1983年)と表現されるほどでした。 結果、名古屋では戦災復興計画として東京を上回るペースで区画整理事業が進められ、今も東京とほぼ同規模の2万2000ヘクタール、市域の約7割が土地区画整理事業で整備されています。このため、名古屋は「白い街」と表現されるほど整然とした街並みとなっています。