「自分が一票入れた人にこそ厳しい目を注ぐ」麻木久仁子が伝えたい、選挙への向き合い方
日常生活の中にある政治性が“漂白”されてしまっている
――全体の投票率を見ると、昔よりも下がっていますよね。 麻木久仁子: そうですね。なんとか投票率を改善しようとさまざまな施策が行われていますが、その施策は投票率を“上げる”話なのか、それとも投票率が“上がる”話をしているのかという点が気になります。 例えば、投票率を上げようという話なら、深夜や早朝でも投票できるようにするとか、投票所に託児所を作るとか、できるだけ投票しやすい環境を整える工夫が必要なので、大いにやった方がいいと思うんです。ただ、そういう工夫とは別に、なぜ投票率が上がらないかを考えた方がいいですよね。 おそらく、日常生活で政治性が失われているからじゃないかと私は思うんです。政治は国家の行方を考えることだけではありません。日常生活の中で「こうした方がもっと良くなるんじゃないか」とか「これは良くないことだから止めた方がいいんじゃないか」という思いがあるとしましょう。そこで、自分と同じ思いを持つ人がいたら、仲間になって、その仲間がどんどんつながってだんだん声が大きくなっていくと、最終的に大きな変化をもたらすことができるのです。これが、日常生活の中に根ざす政治だと思います。 教育現場における校則の問題も、日常生活における政治性の一つと言えるでしょう。「この校則、ちょっと疑問があるんだけど、どうしたらいいだろう」と考えることこそが日常の中の政治性です。例えば、うちの娘の下着が白いか黒いかを学校の先生がスカートをめくってチェックするなんて私は許さない。当事者である子どもたちは未成年者だったとしても、学校現場には教員もいるんだし、保護者も関わっている。子どもたちはそういう大人がどう議論し、解決していくのか、その姿を見てどう世の中に関わっていけばいいのかを知るんだと思うんです。その環境で育った子どもたちが18歳になったとき、自分は誰に投票しようかと主体的に考えられるようになるのではないでしょうか。 なのに、今の日本は日常生活における政治性を“漂白”しちゃってるんです。選挙時でないときに、私たち芸能人が政治的な発言をすると「本業をやってろ」と言われる。街でデモ行進していると「こいつらうるさくて迷惑だ」と言われる。なのに、選挙になるとにわかに「投票に行きなさい」「なぜあなたたちは政治に関心がないのか」と言われる。でも、選挙の時期が終わったとたんに、「政治の時期は終わったので黙りなさい」と言われるし、政治活動は「身の程知らずだし、意味がないからやめなさい」とされてしまう。投票行為だけが世間が許してくれる政治活動で、それ以外の活動は迷惑だからやめなさいとされてしまっているのです。これで本当に正しい投票率アップをしようとしているのか疑問ですね。 ――麻木さんは、日常生活の中の政治性が漂白されている背景には何があると思いますか? 麻木久仁子: 私はメディアの責任がとても大きいと思っています。例えば、国会が開かれないときに「野党反発」という見出しで記事が出ると、世間は「野党は反発してばかりいる」という風潮になる。でも、国会が開かれていないんだから、本当は野党反発じゃなくて「与党違憲」と書く必要があるんです。 選挙も投票してお終いじゃありません。投票した結果、議席が決まり、国会が開かれる。そこでどんな議論が行われているかを日々監視していくのがメディアの仕事ではないでしょうか。 そして、政治について興味を持つには、精神的にも肉体的にもゆとりが必要なのですが、こうしたゆとりを支えるのが経済的ゆとりだったりもします。ところが、非常に生活が苦しく、心身ともにギリギリな人たちが増えていて、一番政治の力を必要としている人こそが一番政治から遠のいているという現状が拡大しつつあるのです。 こういうときに、一義的に責任を持つのは政党だと思います。政党が自分たちから彼らに歩み寄って、彼らが政治にコミットできるような回路を作ることが政党の責任。そういう責任を意識している政党はどこか、そういう意識を持って政策を掲げている政党はどこかを考えないといけないなと思うんです。