関根潤三は大洋の次期監督候補の長嶋茂雄にバトンを渡すため、阪神を解雇されアメリカにいた若菜喜晴を入団させた
投手交代のタイミングに関しても、若菜はしばしば相談されたという。 「関根さんからは何度も、『どうする、代えどきか?』って聞かれました。いろいろな監督の下でプレーしてきましたけど、そんなのは関根さんだけでした。のちに僕は、ダイエーホークス時代の王(貞治)監督の下でコーチを務めますけど、王さんはすべて自分で判断していました。関根さんのように選手目線で判断するケースは珍しいですね」 【センターラインを強化したチーム】 入団からしばらくして、若菜は理解する。なぜ、関根は自分を獲得してくれたのか? そして、関根が描いていたチームづくりとは何か? 若菜が解説する。 「関根さんはセンターラインをしっかりと固めたチームつくりをしたかったんだと思います。そのために、まずは高木豊をセカンドに抜擢した。そうすれば、山下大ちゃんとの二遊間が固まります。そして、センターには屋鋪(要)がいる。そうなると、手薄なのはキャッチャーです。市川が育つにはまだ時間がかかる。当時、僕は30歳になる頃でしたから、投手陣とも年齢が近い。経験もある。若いキャッチャーが育つまでのつなぎとして、ちょうどいい存在だったのではないでしょうか」 そして、若菜は続ける。 「そんなチームづくりをしたうえで、長嶋さんに託したかったんだと思います」 関根が大洋の監督を務めたのは82年から84年の3年間である。そのうち、若菜は83年途中、そして84年をともに過ごした。関根が大洋に遺したものは、一体、何だったのか? そんな質問を投げかけると、質問には答えずに若菜は言った。 「関根さんがもう少し監督を続けていたら、大洋は面白いチームになっていたと思いますよ......」 その真意を聞いた。 「関根さんのあとに長嶋さんが監督になっていたとしたら、さらに面白かったでしょうね。ある程度、関根監督時代に戦力は整っていましたから。高木豊に加藤博一[進田4]さん、そして屋鋪要がいて、田代(富雄)もまだ若かった。関根さんの後任の近藤(貞雄)監督にもお世話になったけど、近藤さんは自分が目立つことを好むタイプでした。でも、関根さんは土台づくりの監督で、決して自分は表に出ない。関根さんがつくった土台の上に、長嶋さんが監督を務めていたら......。大洋はすごく面白いチームになっていましたよ」