関根潤三は大洋の次期監督候補の長嶋茂雄にバトンを渡すため、阪神を解雇されアメリカにいた若菜喜晴を入団させた
チーム事情を考慮すると、当時29歳の若菜ほどの適任はいなかった。関根にとって、若菜は喉から手が出るほどの存在だったのだ。 【移籍後、不動のレギュラー捕手に】 さらに、前掲書からの引用を続けたい。若菜の獲得に当たって、次期監督候補と目されていた長嶋が、どのような役割を果たしたかについての言及である。 私は、球団と交渉をもつかたわら、長島茂雄君にも状況を説明しておいた。この時期、長嶋君の大洋入りはほぼ決まりかけていたからだ。「今度、若菜を獲ることにしたよ」「彼はいいキャッチャーですから、絶対に戦力になりますよ」 長嶋君はそういって、我がことのように喜んでくれた(原文ママ)。 こうして83年7月、若菜の大洋入りが決まり、ここから「監督と選手」として、関根との関係が始まることになったのである。 「当時の大洋は、非常に和気あいあいとしている雰囲気のいいチームでした。山下大輔さん、高木由一さんが率先して僕のことを受け入れてくれて、すぐに溶け込むことができました。それは『関根さんがつくり出したムードなんだろう』、そんな感じがしましたね。すごく雰囲気のいいチームだったけど、逆に言えば、戦う集団ではなく仲良し集団で、『だから勝てないんだ』ということなんでしょうけどね(苦笑)」 投手陣の軸であり、精神的支柱でもあった遠藤一彦、斉藤明夫(=齊藤明雄)とは公私ともに濃密な時間を過ごした。「強肩強打のキャッチャー」として期待されて入団し、着々とチーム内における居場所を築いていた。そこには関根の存在も大きかったという。 「関根さんはある程度は選手に任せてくれるスタンスでした。ピッチャーが打たれ始めると、監督がベンチから出てくるんです。でも、僕も斉藤も目も合わせずに知らん顔をする。すると、マウンドに来ることなく、そのままベンチに戻っていくんです。『あいつらにはあいつらなりに考えていることがあるんだろう』と考えてくれる監督でした」