『虎に翼』の「判事餓死事件」を見て考えた…戦場に出ていない「大正生まれ」が抱いていたであろう「悔しさ」と「申し訳なさ」
「泣きながら否定する」という態度
「人間、生きてこそだ。国や法、人間が定めたもんはあっというまにひっくり返る。ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。法律っちゅうもんはな、縛られて死ぬためにあるんじゃない、人が幸せになるためにあるんだよ」 彼は泣きながら、でも花岡判事を非難せねばならぬ、と言った。「泣きながら否定する」という態度が、ひとつ正しいのかもしれない。いかにも日本的だが。 あらためてこの山口判事が大正2年生まれであり、終戦時に数えで33歳でしかなかったことから、別の風景が見えてくる。 日本国で、大正年間に生まれた男子は、根こそぎ、戦争に注ぎ込まれた。 まるまるみな戦争に駆り出されたのだ。 昭和の戦争は、明治生まれが始めた戦争であり、大正生まれが戦争の駒として使われた戦争であった。 きれいに大正生まれだけである。 明治の末年生まれも徴兵されているが、昭和生まれは誰も徴集されていない。(志願兵は違うが、志願兵は徴兵ではない) 昭和生まれはもっとも年嵩で終戦時に18歳でしかなかった。 山口判事もまさにその世代である。 中国との戦争(当時の名称で支那事変、いま日中戦争)が始まった1937年(昭和12)のときに大正2年生まれは、24歳、終戦時で32歳、まさに兵士の世代である。 つまり、同期や、先輩後輩が次々と死んだ世代なのだ。
抱いていたであろう「悔しさと申し訳なさ」
友人が死んで、自分が生き残っているところに何の理由もなかった、というのは、戦争から帰ってきた人が口にするセリフである。 生死の境は運以外のなにものでもない。 また、この先、いつ死ぬかわからない。やがて死ぬつもりでいたほうがいい、というのは大正生まれが戦争中にずっと抱いていた感情だ。 ドラマのなかで、同期の轟(戸塚純貴)が、花岡が判事になって徴兵されないのでよかったと、血を吐くように言っていたので、花岡判事は(つまり実在の山口判事も)戦場には出てないらしい。 大正2年生まれの人が、戦場へ行かず、国内で暮らして終戦を迎えたとき、悔しさと申し訳なさを激しく抱いていたのではないかと、これは想像でしかないが、そうおもわずにいられない。 ましてや裁判官として、「公」であることをこれほど強く考え、公僕という意識を軸に行動していた判事なのだから、そういう感覚を持っていなかったとは考えにくい。 闇米を拒否し、死ぬかもしれない、という意識がありながらもそれを続けたのは、彼にとって食糧管理法違反に関わるかぎりは戦地にいるのだ、という心情があったのではないだろうか。 経済事犯専任を解かれたあとは闇の食料も口にしたという記事を読むと、つい、そう考えてしまう。 身を削っても公のために働くというのは、この世代にはどうしても避けられなかったのだ。 おそらく、国のためにというより、友への信義のために。
堀井 憲一郎(コラムニスト)